言語の原形質とは

 

 

『『皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則』ロジャー・ペンローズ著 林一訳を読んだ。


「コンピュータとAI」をテーマにした大著だが、ムズイんで「言語化」にしぼって感想を。

 

アダマールが創造的思考の研究を通じて提起した主な論点の1つは、言語化
思考には不可欠だという、いまでもしばしばなされている主張をきっぱり否定
したことである」(「アダマールアインシュタインから受け取った手紙の一節」)

「書かれたり話されたりする言語や言葉が私の思考の仕組みのなかでなんらかの
役割を演じているとは思われませんが、思考のなかで要素として働いてるように
思われる精神的実体は、『思いどおりに』再現できて組み合わせることのできる
ある種の記号と多少なりとも明白な心象であります--------上述の要素は、私の
場合、視覚型およびある種の筋肉型であります。先に述べた結合の働きが十分進
んで、意のままに再現できるようになった第2の段階になって初めて、通常の言
語や他の記号を苦心しながら探し出す必要が出てきます」 

 

言語は哲学には適しているが、数学には適していない。そして

「意識的思考の多くが非言語的性格のものであるとするならば」

 

 と。

 

言語には、2種類あって通常の言語と内的言語があって、ペンローズがあげている
のは、後者のほう。いわば言語の原形質のようなものであり、たぶんアインシュ
タインのような天才には、一瞬のひらめきにより、その全貌が言葉ではなく数式
かなんかで見渡せるのだろう。

 

第1段階のものを第2段階で言語に翻訳する。学生のとき、英文を和訳したことが
あるが、そのときに「なんかニュアンスが違うな」的なものを感じた人は多いと
思うが、そのあたりになんかありそうだ。ってことだろうか。

 

言葉がもどかしいのは、いまになってはじまったことじゃない。だって、「I Love You」という気持ちは、「I Love You」という言葉とほんとにイコールなのか。
ま、そんなこと。

 

ついでに、『真理の帝国』ピエール・ルジャンドル著から引用。

 

「世界とはいったい何なのだろうか。それは言葉である。だからそれを使いこなして意味を生み出させるのだ」(『真理の帝国』ピエール・ルジャンドル著より)

 

いわゆるエクリチュール(書き言葉→テクスト)とパロール(話し言葉)の問題。話し言葉を記録するために生まれた書き言葉は本来代用品であったはずなのに、いつしか地位が逆転した。


エクリチュールに対して現代人は盲信あるいは絶対視し過ぎているのではないだろうか。

 

参考

soneakira.hatenablog.com

 

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