情欲のあいまいではない対象―キリスト教徒における処女・童貞、結婚、夫婦

 

性の歴史 4 肉の告白

性の歴史 4 肉の告白

 

 

『性の歴史4 肉の告白』ミシェル・フーコーフレデリック・グロ編 慎改康之訳を読んだ。アレクサンドリアのクレメンスなど宗教学者の文献からテーマについて丹念に考察する。生煮えだけど、気になったところを引用して短い感想をば。


「第一章 新たな経験の形成」

 

「洗礼は、再生および第二のテーマとして受け止められたとき以来―少なくとも、死を定められた最初の誕生の後で、洗礼が真の生である一つの生を「再び誕生」させていたという意味において―死との関係を伴っていた」P.103

 

生物学的な誕生と洗礼によるキリスト教徒としての誕生がある。で、重要なのは後者だと。『肉の告白』の「肉」だが、聖体拝受で受けるパンがキリストの肉。ワインはキリストの血。この儀式を通過した者は「永遠の命と終わりの日の復活」のお墨付きを得られるそうだ(ヨハネによる福音書 6章51-58節より)。

 

「第二章 処女・童貞であること」

 

「死の法のもとでは、結婚は一つの掟だったのである。しかし今日、世界を支配しているのはもはや死の法ではない。―略―「主」は、結婚の法のもとで、人間に学習させたのである。しかし、いよいよ完徳の時が、つまり処女・童貞性の実践と完成する世界とが接合すべき時がやって来た」P.262 

 

「完徳」とは

「神の完全にならって,人が近づくべき目標としての完全さをさし,信徒の生活の究極目標であると説かれている。」(「コトバンク」より引用)

キリスト教徒の理想と結婚生活の理想とが双方実現できる可能性があると。

 

「その接合が可能になったのは、一人の処女の体内で受肉*し、自分自身完璧な童貞として生存し、洗礼という霊的出産によって人間を再び誕生させることで、徳の一つのモデルを人間に提示しただけでなく、肉の反逆を打ち負かす力を人間に与えて、肉そのものが栄光のなかで復活する可能性を開いたからである。「受肉」の後、「受肉」によって、世界の内部そのものにおける、そして肉の軛そのものにおける天使的生の復元としての処女・童貞性が可能になったのである」P.262

 

「*受肉とは 神が人の形をとって現れること。キリスト教では、神の子キリストがイエスという人間性をとって、この地上に生まれたこと」(「デジタル大辞泉」より)。

人間はイエスのコピーなのだろうか。

 

「第三章 結婚していること」

 

「処女・童貞性は結婚に優っているが、結婚は悪ではないし、処女・童貞性は義務ではない。この一般的テーゼを、聖アウグスティヌスは、彼以前にすでにはっきりと形成されていた伝統から受け取ったのだった」P.378

 

「結婚が産出するのは、霊的果実ではない。男女の肉体的結合からは、キリスト教徒が生まれるのではなく、ただ単に人間が生まれる。その人間がキリストの手足となり神の子となりうるのは、秘跡の霊的な御業によってである」P.390

 

キリスト教徒にならなければ、人間にはなれないということか。
宗教を問わず関係者の理想は、世界中の人間がその宗教の信者になることだと聞いたことがあるけど。

 

「結婚を拒否して神に身を捧げた女たちは、処女であると同時にキリストの母であるというマリアの役割のうちの一つの側面を得た、ということはできる」P.390 

 

修道女や聖女などが該当するのだろう。

「結婚は、それ自身によって、社会の最初の要素を構成しているのであり、そしてその絆は誕生の絆と同じくらい強固である」P.410

 

「結婚はそれ自身によって一つの善である。なぜなら結婚は、夫婦のあいだに、三重の特徴を持つ関係、すなわち、「自然」であり、二つの異なる性を結び合わせ、友愛と近縁関係による交わりを社会の基本要素として構成するような関係を打ち立てるからだ」P.410

 

男女が結婚して夫婦になるメリット。社会的信用とか。同性婚だって「自然」だと思うが。

そして聖アウグスティヌスには

「もう一つ別のテーマ」しかもきわめて「重要なテーマを形成していた」それが「リビドー(性的情欲)」である。P.457

 

フロイト精神分析学に興味がある人ならば、おなじみの言葉だが、そのルーツは聖アウグスティヌスだったと。

 

「情欲は、あらゆる人間における原罪の原働的状態として、「あらゆる意味において」一つの罪である。情欲は、あらゆる人間にその責めを帰すべきもの、あらゆる人間において断罪されるべきものである。情欲こそが、洗礼を受けずに死ぬ人々の劫罰を正当化するのだ」P.458


「彼(アウグスティヌ)によれば、夫婦間の性交渉において、人はただ単に、結婚の権利および相手の身体を使用するだけではない。人はまた、自分自身の情欲も使用するのだ。―略―結婚によって正当化される行為が、それ自体としては一つの悪であるとしたら、どうして結婚は一つの善であると言えるのだろうか。結婚は積極的なやり方で一つの善である(ただ単に姦淫よりも小さな悪であるだけではない)、というテーゼは維持されえないということなのか。それとも、情欲の悪はいかなる性的関係にも必然的に伴う、という命題の方が維持されえないということなのか」P.467

「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(新約聖書・マタイの福音書5章28節より)

 

 

セックスは生殖のためなのか、快楽のためなのか。情欲は人間の哀しい性(さが)なのか。


「訳者解説」

 

「本書第四巻においてフーコーは、キリスト教において欲望が不断の警戒および分析の対象とされ、欲望と主体の根源的な関係が打ち立てられるようになるプロセスを、以上のように描き出す。西洋の人間が自分を「欲望の対象」として構成するに至ったやり方を解明するという、新たな『性の歴史』の任務が、ここに果されるのである」

 

だらだらと書いてきたが、訳者はわずか数行でこの本の概要を上手にまとめている。

 

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