「「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言」仲正昌樹著の読書メモ。
あれか、これかとすぐ判断や踏み絵を求められるいま。
保守-革新、大きな政府-小さな政府、禁煙-反禁煙、ジェンダーフリー-反フリージェンダー、唯心論-唯物論、犬派-猫派、ウヨク-サヨクなど枚挙に暇がないほど。
何も白黒つけるんじゃなくて、両者の妥協点、一致点はあるはずなのに。
でも、それには、議論を重ねるなどお互いの歩み寄り、時にはすり合わせが必要で、
時間がかかる。勉強もしなきゃならない。かつての修正資本主義のようなものか。
どうもこの歩みよりも、談合みたいにとられがちで芳しくない現状。
IT時代なんだから、即座に、一言で決めなきゃ。
そうすれば、指導力がある、判断力があると、みなされる。
だからかつての小泉総理が一言(いちげんじゃなくてひとことと呼んで)居士なのも、
分かりやすく、TV用としてはきわめてウケがいいのだろう。
作者はちょっと待てよという。
右よりの雑誌の鼎談に参加したからってなんで魂を売り渡したようにいわれなきゃいけないんだと。ぼくもそう思う。
そしてその「二項対立」をブレークスルーする一つの手立てが「アイロニー」であると。
「「戯れ」と「真面目」の中間に漂い続けるロマン主義的アイロニーは、二項対立的に硬直化している思想状況を捉え直すうえでためになる、と私は思っている。正面“敵”とマジで対決し続けている限り、なかなか気づきにくい“敵/味方”双方に共通する、論理的な必然性のない非合理的な思い込みを、対決の前線から少し引いた位置から描写することによで、その滑稽さをアイロニカルに見つめる姿勢が時として必要である」
その昔、大学の自治会のサヨクのオネエさんが、講義前にアジ演説をブチに来て、
止せばいいのに、へらへらと意見したら「茶化さないで」とエライ剣幕で怒られた。茶化す気は、毛頭なかった。
どうもへらへら意見は、頭の硬化した人や一途なイデオローギッシュな人たちには、
茶化しやアイロニーと受け取られがちで、まったくもって旗色が悪いまま。
アイロニカルな視点は作者いうところの「批評」にはなくてはならないもの。
ただ作者の唱えるアイロニーとシニシズムの違いがイマイチよく判らない。
「「哲学者」を自称する人々の多くは、「哲学する」には書物(エクリチュール)を通して得られる予備知識は本質的には必要ではなく、何もないところで自分自身と内面的な対話をしながら思考を進めていくのが哲学本来のあり方だと主張したがる傾向がある」
「哲学者は-略-「自分自身に内在する言葉」を求める。言ってみれば、死んだ文字(エクリチュール)」ではなく、生き生きした語り(パロール)を志向するわけである」
生き生きしたエクリチュールに対しては、作者は「分かりやすさ」同様、気をつけろといっている気がするが、「生き生きした語り(パロール)」は是認している。で、分かりやすくいうとどうなるの。
「ポスト・プラトンの哲学者たちは、不純物を多く含んだ劣化コピーとしてのエクリチュールの悪影響を可能な限り取り除くことを通して、私たちの「内面」における本質的な思考を忠実に再現できる“生きた言葉”を見出そうとしてきたのである」
エクリチュールの曖昧さ、いい加減さは、ふだんの生活の中でも体験していることだ。
しかし…。
「「弁証法=対話」というのは、まさに他者との「記号」を介したやりとり(=エクリチュール)」を通して、自己の内面における思考を練り上げていくプロセスである」
ヘーゲルも、「ヘーゲルの弁証法をひっくり返したマルクス」も、要するにこの「呪縛」から解かれてはいない。はじめにパロールありき。それをいわば保存する、記録するためにエクリチュールが考案された。なのに、書物が第一シードなのは、ちゃうやんか。ということなんだろう。
「何もないところで自分自身と内面的な対話をしながら思考を進めていく」というのは、考えるだに、恐ろしい。丸腰で獣と闘うようなものだから。知識の贅肉を削ぎ落として。片方の眉毛を剃り落として山ごもりした大山倍達の如きものを想像する。
ゆえに脱構築なのだろう。なんとなくわかる気もするが、堂々巡り。