青いソーダ水とコルタサル

 

遊戯の終わり (岩波文庫)

遊戯の終わり (岩波文庫)

 

 『遊戯の終わり』コルタサル著 木村榮一訳を読む。

 

コルタサル幻想小説、奇想小説の魅力ってなんだろう。

あり得ないことがあり得る、あり得た。しかも、それがポップ(仮)だからだ。
最初、ユーモアと書こうと思ったが、なんかふさわしくない。
でもぴったりの言葉が見つからないのでポップ(仮)にした。

 

次が、青くさいってこと。
万年文学青年、青春(あおはる)、青の時代。一人称単数は「ぼく」以外、ない。

とっくに青年じゃないぼくが読むと、青くささを感じる作品もあるが、

この青くささ、実は中毒性がある。何篇かピックアップ。

 

『続いている公園』
誰が書いた作品かは失念してしまったが、作家に書かれたキャラクター設定が気に入らず、キャラは作家に設定の変更を申し入れる。認めなかった作家はキャラに殺され、
小説はキャラによって改竄される。
この作品も小説を夢中になって読む男と小説の登場人物が交錯する。ナイフを持った男が読んでいる男の背後に。「志村!うしろ〜!」状態。

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『いまいましいドア』
ホテル住まいのペトローネ。夜、「うとうと」していると、子供の泣き声がうるさかった。着替えの最中、気が付くと「洋服ダンスの奥に隣室に通じるドア」を見つける。
ホテルは古い屋敷をリフォームしたものだと推測する。
夜中、再び「赤ん坊の泣き声」で目を覚ます。
でも隣室の女性は一人のはず。支配人に確認したが、埒は開かない。
明け方、「赤ん坊の泣き声」が。もしや女性の一人芝居かも。それに騙されているのか。女性は部屋を出ていくことに。安堵する。ところが、またもや…。

 

『水底譚』
川に投げ込んできた水死体をめぐる体験談。絶妙な描写と語り。不気味さとなぜか神々しさが一緒くたになった感じ。

 

「マウリシオ、じつを言うと、あの水死体はぼくなんだ、あの顔はぼくの顔だったんだ」 

 ブコウスキーの原作をリュック・ベンソンが映画化した『つめたく冷えた月』の映像をイメージさせる。

 

山椒魚
「植物園にある水族館」で出会った山椒魚。「ぼく」は、虜になり足繁く通う。
「図書館で山椒魚」について調べたりする。ある日「ぼくの意識」が
山椒魚とシンクロしてしまった。山椒魚になった「ぼく」が、見る人間界。
「訳者解説」でカフカの『変身』と比較して論じている。
カフカの『変身』は重苦しい絶望や悲壮感があるが、
本作はなんだかほんわりとしている。


『遊戯の終わり』
「暑くなると、アルゼンチン中央鉄道の線路」を遊び場にしていた3人の少女。
秘密の「王国」で「彫像」になったり、「活人画」に興じる。
ま、パフォーマンスとかコスプレごっこかな、今風に言えば。
それを「列車の乗客」に見せていた。
客からの手紙が届く。いわばファンレターであり、ラブレター。
色めく少女たち。手紙を送った少年が会いに来る。
少年は一人の少女のファンだった。
少女たちに波紋が、不協和音が生じる。
「遊びは中止」となる。3人は次の階段を上ることになる。
おしゃれなフランス映画の体(てい)。


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