居るのはつらいよ-2

 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 『居るのはつらいよ』東畑開人著を読む。

以下まとまらない読書メモ-2。
前回のエントリーのおさらい。
セラピーでは

「治療はあくまで手段だ。やはり、通過していくものだ」

と。

「「変わらない」ことにも高い価値が置かれる。」

 

ケアにおいて

「治療は通過するものではなく、「住まう」ものになる」

 

 
世の中は「変わる」ことに重きが置かれていると作者は述べ、疑問を投げかけている。
 

レヴィ=ストロースは『野生の思考』という名著のなかで、原始的な部族の社会を「冷たい社会」と呼び、僕たちの社会を「熱い社会」と呼んでいる。」

 

 
「熱い社会」こそ「変わる」ことが大命題となっている社会。なら、「冷たい社会」は、遅れた社会なのか。違う!と。
やっぱり『野生の思考』、最後まで読もうっと。
 
たぶん「変わる」こと、「変わらない」ことをうまく併用して生きているんじゃないかな。
 
作者はデイケアでメンバーさんからケアされていることに気づく。ここ、大事。
 

「「専門家ございます!」という武装を解除して、メンバーさんの親切をキャッチし、身を委ねられるようになると、スタッフになれる」

 

同じ立場に立つ。
 

「家庭でもそうだし、普通の職場でもそうだ。全部自分でやろうとしないで、人にやってもらう。お互いにそういうふうにしていると、「いる」が可能になる。いる」とはお世話をしてもらうことに慣れることなのだ」

 

最後に作者はセラピーとケアの不均衡を述べている。
 

「セラピーにはお金がつきやすく、ケアにはお金がつきにくい。これだ。
会計の声が持ち込む市場のロジックは、セラピーに好意的で、ケアの分は圧倒的に悪い」

 

費用対効果をケアに求められても「変わらない」ことがケアなのだからなあ。
「ただ、いる、だけ」が認められる社会。どうも流れが逆行しているようで。
 
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』で「ライ麦畑の崖から落ちそうな子どもたちを守る仕事がしたい」と言っていたホールデン・コールフィールド
ふと思いうかべた。