「虎は死んで皮を残す」。マゾッホは死んでマゾを残す 『ザッヘル=マゾッホ紹介』の紹介

 

ザッヘル=マゾッホ紹介 (河出文庫)

ザッヘル=マゾッホ紹介 (河出文庫)

 

 

『執念深い貧乏性』栗原康著で取り上げられていた
ザッヘル=マゾッホ紹介』ジル・ドゥルーズ著 堀千晶訳を読む。
晶文社から出ていた『マゾッホとサド』蓮実重彦訳の「新訳」。
気にはなっていたが読んではいなかった。
ついでにマゾッホの代表作『毛皮を着たヴィーナス』ザッヘル=マゾッホ著 種村季弘訳を併読。
ドゥルーズの難解さに比べて『毛皮を着たヴィーナス』は、すいすい読める。
 
さて『ザッヘル=マゾッホ紹介』だが。
サディズムはS、マゾヒズムはMという略称で使われている。
「私、どSだから」とか「ぼく根っからのどM」とか。
サディズムの対語がマゾヒズムだと思われているが、
それは違うとドゥルーズは述べる。
しかし、ドゥルーズ、何冊読んでも難解。難解だけど、その省察が脳内にうすく見えてくる。

フェティシズムは、本質的にマゾヒズムに帰属する」

 作者はフロイトを引きながらこう述べている。

 

「フェティッシュとは、女性のファルスのイマーゴないし代替物である。すなわち、女性にペニスが欠けているということを、私たちが否認する手段なのだ」

 匂いフェチ、脚フェチ。ストッキングフェチ、毛皮フェチ、鎖骨フェチ…。

 

マゾヒズムにおける拷問者の女性がサディストでありえないのは、まさしくかのじょがマゾヒズムのうちにいるから」

 

単純な図式ではないらしい。
 

「主体としてのマゾヒスト、マゾヒズムのある種の「本質」を必要としているのであり、それはじぶん自身の主体的なマゾヒズムを断念する女性の本性のなかで実現される」

 

確かに『毛皮を着たヴィーナス』を読むと貴婦人の思いや行動と一致する気がする。
共依存の一種なのだろうか。
 
サディズムマゾヒズムの違いを 引用-1。
 

サディズムは否定的なものから否定へと向かう。すなわち、たえず反復される部分的な破壊としての否定的なものから、理性の全体的な理念としての否定へと向かうのである」

 否定は問答無用で一刀両断。大嫌い!

マゾヒズムは否定から宙吊りへと向かう。すなわち、超自我の圧力から解放される過程としての否認から、理想を具体化するものとして宙吊りへ向うのである。否認とは、ファルスの権利と所有を、口唇的な母へと転移させる質的過程である」

 否認は、大嫌いかも!

サディズムマゾヒズムはたがいに異なる構造であり、互換可能な機能ではない。ようするに、発生論的な派生ではなく、構造的な分断という用語によって、サディズムマゾヒズムはその本性をあらわすのだ」

 AndroidiPhoneみたいにOSが違うってことか。なのに、一緒くたにしている。

 
サディズムマゾヒズムの違いを 引用-2。

マゾヒズムとは、いかにして、だれによって超自我が破壊されるのか、そしてこの破壊からなにが生まれるのかを語る物語である」

 どういうことか。訳者あとがきより引用。

 

「いつ振り下ろされるやもしれぬ宙吊りにされた鞭による苦痛を予期して待つ瞬間をこそ味わいおののくこと、苦痛が条件づける快の到来をたえず先送りにし、その引き延ばし状態を生きることで、そこから別種の快を呼び寄せること、そのために苦痛を与えてくれるよう女性を説得し、契約を結ぶこと」

 

 
ああ読みかけの『毛皮を着たヴィーナス』に出て来る青年(ヘンタイよいこ)だ。

サディズムも一個の物語である。この物語が語るのは、まったく別の文脈と別の闘いのなかで、いかにして自我がたたかれ、追放されるかである」

 どういうことか。訳者あとがきより引用。

 

「暴力的で猥雑な描写を急速度で積み重ねること、暴力を加速させ、それをおびただしい数の犠牲者に向け投射し、冷淡に実行すること、見せかけの対話を嘲笑う論証を長々と繰り広げ、アナーキーな制度のもとで絶対的な命令を下すこと、夢を破壊すること」

 マルキ・ド・サドの『閨房哲学』。長口舌に辟易した。

ザッヘル=マゾッホ紹介』よりも『ザッヘル=マゾッホ プレゼンテーション』と直訳のままの方が、狙いが伝わるのでは。