存在の耐え得る重さ

「ボヴァリー夫人」論 (単行本)

「ボヴァリー夫人」論 (単行本)


ボヴァリー夫人 (河出文庫)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

『『ボヴァリー夫人論』』蓮實重彦著と
『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール作 山田爵訳をほぼ同時に読んだ。

現代の小説のフレームワークをこさえた作品だそうだ。
ぶっちゃけ言うなら、日本語のロックを切り拓いたはっぴいえんどの如し。
衣食足りて恋愛に走るボヴァリー夫人。
アンモラルな恋愛は蜜の味なのか。
そこに自身の存在証明を見出す。
よろめきドラマとしてひたすら堕ちていく夫人。
なかなかによかった。

エヴァンゲリオン』でいうと初号機の作品ゆえ、100パー完成してはいない。
ストーリーなどが安定していないところがある。
そこが、ある種の魅力になっている。

さて、『『ボヴァリー夫人論』』。
最近のサブカルっぽい軽い感じの文章に慣れ親しんでいると、
重たく、やさしくない文章。その巨大な塊。
でも投げ出さないで我慢して丹念に読み進むと、目を啓かされる。
たとえば、こんなところ。

「「読む」こととは、必然的に「作品」を読みそびれることを前提とする過酷な体験にほかならず、それは、言語記号は有限でありながらも、なお「テクスト」を読むことに終わりの瞬間が訪れえないという矛盾をそのつど意識化させる。そのとき、「フィクション世界」に対する「フィクション」の「テクスト的な現実」の抵抗が始まる」

「「作品」を読みそびれること」とは、誤読だよね。
誤読、上等。百年の誤読。

「ここでめざされている「読むこと」は、作品の「意味」の解読とも
それへの注釈とも異なる身振りだからである。それは、たえず隠され、
しかも中心化されている「意味」の生成にかかわることではなく、
もっぱらテクストの周縁部分にまどろんでいるもろもろの細部を目覚めさせる身振りにほかならない」

神は細部に宿る。もとい、小説の神は細部に宿る。

作家が発表した作品は、氷山の海面上に出ている部分。
見えない氷山の部分をいかに解釈するのか。成分分析するのか。
 臨床(クリニーク)から批評(クリティーク)へ。

年越しの宿題を忘れかけていた。
昨日、あわてて図書館へ参考資料を借りに。
ついでに『文学界』2014年9月号も。
お目当ては小谷野敦の『ヌエのいた夜』。

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