昨日、帰りの電車で

零度のエクリチュール 新版

零度のエクリチュール 新版

昨日、帰りの電車でスマホをしている女子高生がいた。
鼻をぐすんぐすんさせて、メールを読んでいる。
風邪か鼻炎と思ったら、泣いているようだ。
瞼を拭ったから、そうなのだろう。
友だちから絶交のメールとか、
男友だちから別れのメールとか。
返事を出そうと、文を考えあぐねている感じ。


こんなことに遭遇したのは、
『零度のエクリチュール 新版』ロラン・バルト著 石川美子訳を
読んだせいからなのだろうか。
新訳がグーなせいか、かつて旧版を読んだ時のもやもやが、晴れる。
つっても、ちょっとだけ。

デビュー作は、肩に力が入りすぎて余計難解だそうな。
バルト先生とてそうだったのか。

訳者によるとバルト自身の「エクリチュール」の概念も
単なる文体から、書き手自身までを包括したものとと
時期的に揺らいでいるそうな。

「文体とは誰に向けられたのでもない形式であり、
意志ではなく衝動的な力の所産であり、思考の垂直で孤独な側面の
ようなものである。依拠するのは「歴史」ではなく、
生物学や過去の次元である。文体とは作家の「物」であり、
栄光であり、牢獄である。孤独である。文体は社会に関心がなく、
社会に対して何かを包み隠しはしない。個人の閉ざされた歩みであって、
「文学」についての選択や熟考の所産とはまったくちがっている。
文学の慣習の私的な部分であり、作家の神話的な内奥から伸びあがって、
作家の責任のおよばないところへと広がってゆく」

これってTwitterのリツィートによる拡散とも言えないか。

このあと、話し言葉との違いを述べているが、
パロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)って
パロールは、すぐに伝播してすぐに消えていく特性がある。
エクリチュールは、文字化され残る特性があるというが。
Eメールじゃ、どうなんだろう。

「文は人なり」というが、私というひとから他者というひとへ。

はじめに言葉ありき。とは、言うものの。


こんなこともあった。
以前、混んだ電車で隣に居合わせたリクルートスーツの女の子が、
たぶん、ケータイ電話で、上司宛に辞表らしいものを
入力しているのを見たことがある。
見たくはなかったんだけど、見えてしまった。


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