暇と退屈

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学




『暇と退屈の倫理学』國分功一郎の感想メモ。だらだらと。

「資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。
そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか
分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか
分からない」

たとえば主婦は洗濯をかつては手洗いしていた。それが電気洗濯機によって
新たな時間が生まれた。で、どーした。寝転がっておせんべいかじりながら
レディスコミック読むとか。やれ時短だのと叫ばれているが、実際のとこは
どーよ。もっとも、余暇って暇が余ると書くもんね。

「そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい
楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに
言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている」


サービス産業の隆盛は、こういうことなのね。
サービス残業と一字違い。

貴族とか生まれついての暇と退屈になれている人種、階層なら
性別を問わず恋愛にうつつを抜かしたり、さまざまな蒐集に走ったり、
あるいはアーチストのパトロンになったり。
文化や芸術はある意味、暇と退屈の産物と言えなくもないけど。
「パンがなかったら、ケーキをお食べ」。


「高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、
インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する
大きな力である」


『ウェブは馬鹿と暇人のもの』という書名を思い出す。名タイトルだよなあ。

フォーディズムへの考察。

「休暇は労働の一部だということである。休暇は労働のための準備期間である。
労働はいわば、工場のなかだけでなく工場の外へも「休暇」という形で続くように
なったのである。余暇は資本の論理のなかにがっちりと組み込まれている」

がっつり休ませたんだから、がっつり働けと。
昨今流行のメンタルヘルスに企業が取り組んでいるのも、
社員品質をバグらせないためのものなのだろう。

ハンナ・アーレントの「労働と仕事」の区分けに対して作者は手厳しい。
あなたがさほど売れないライターで、
生活のためにコンビニエンスストアでアルバイトして得る賃金が労働。
本来の雑誌などに原稿を書いて原稿料を支払われるのが仕事。
だから、なんなんだとツッコミたくなる。
話を戻す。

「人間は退屈する。いや、退屈できる。だからこそ自由である。」

ハイデガーは言っている(そうだ)。

動物は退屈しないとか。うちの猫なんか、もういい年齢だから、
1日の大半を寝て過ごす。でも「退屈だニャー」とかは言わない。

そこに、作者は「生物学者ユクスキュルの「環世界」という考え方」で
解釈を試みる。

「彼(―ユクスキュル)はこう述べる。すべての生物がそのなかに置かれているような
単一の世界など実は存在しない。すべての生物は別々の時間と空間を生きている!」

「単一の世界」とは、たぶん法則化や秩序立てられた世界ってことか。

「ならば人々に「退屈しているのなら決断しろ」と迫るハイデッガーは、結局、
次のように述べているのも同然ではないか―決断するために目をつぶり、耳をふさげ、
いろいろ見るな、いろいろ聞くな、目をこらすな、耳をそばだてるな」

ぼくも、きみも、ブログやtwitterFacebookなどに、
どんだけ時間を割いているんだろう。

「人はそれぞれ物事を理解する順序や速度が違う。同じことを同じように
説明しても、だれしもが同じことを同じように理解できるわけではない。
だから人は、さまざまなものを理解していくために、自分なりの理解の仕方を
見つけていかなければならない」

これはネットにも出ていない。最後は自分で決断していくしかないのだ。

スピノザは理解という行為のこのような側面を指して「反省的認識」と呼んだ。
認識が対象だけでなく、自分自身にも向かっている(反省的)からである。
だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、
ひいては生きる術を獲得させるのだ」

繰り返す。
ぼくも、きみも、ブログやtwitterFacebookなどに、
どんだけ時間を割いているんだろう。


「逆に、こうした過程の重要性を無視したとき、人は与えられた情報の単なる奴隷に
なってしまう」

なかなかに深い本。


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