苦悶式

群衆 - 機械のなかの難民 (中公文庫)

群衆 - 機械のなかの難民 (中公文庫)

ようやく取材原稿がまとまる。
部分部分は書けるんだけど、つなぎ、
全体の構成が見えなくてなんぎする。


『群集 機械のなかの難民』松山巌著を読む。
「二十世紀の日本の群集」の変わり様を社会の出来事を
絡めて考察している。

たとえば夏目漱石の『坊ちゃん』も単なる作品批評ではなく、
書かれた当時の世相や大衆動向を踏まえて展開する。
言うなれば構造主義的アプローチかな。

「彼のいう「文芸」を広く人間の行為と、また彼のいう技術を広く
テクノロジーと置き換えてもいいのではあるまいか。
人間の行為は単なる技術ではない。技術は人格を発揮するためにある。
が、漱石は二十世紀に入って技術が人間を圧倒する事態、
それをはっきり見透かしていた」

「テクノロジーの進歩に応じて群集社会が成立した」

と作者は述べている。

「大杉(栄−註ソネ)が(大正から昭和初期の註ソネ)人々を
「機械人」と断じたのは、広く同時代人が制度や規則にしばられ、
意識が自由でなくなりつつあることを指摘したのだが、
社会の変化としては組織の一員たる個人の増加、重工業の発展、
日常生活における機械の浸透という状況が、「機械人」という
比喩を成立させる」


サラリーマンの旧称である腰弁や
チャップリンの『モダンタイムス』とか、思いつく。

ページを飛ばして。作者は夢野久作の『ドグラ・マグラ』と
中井英夫の『虚無への供物』を対比させ、共通項が
大量の群集の死であることを抽出している。

時代が新しくなるにつれ、全共闘運動あたりから、
読んでいて作者の筆が鈍るような気がするのは、
やはりその最中に存在していて、まだ判明や評価ができないからなのだろう。


人気blogランキングへ