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夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル

夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル

第II講 真理の帝国 (ピエール・ルジャンドル 第 2講)

第II講 真理の帝国 (ピエール・ルジャンドル 第 2講)

お待たせしました、『夜戦と永遠』佐々木中著 読書メモ。
いつもより、生煮え状態。
でも噛み締めると、素材本来の味がじわ〜っとにじみ出るはず。

「<鏡>は言葉とイメージの不均質な浸透状態から構成されている装置であり、
その装置は言葉とイメージのあいだにある何かを生産する。つまり表象を生産する。
主体という表象を、自我という表象を、他者という表象を生産するのだ。そしてその表象は
欲望し、狂乱する」

「この「原始的なファルス期」においては「(幼児の―付記筆者)主体は、母の欲望の対象に鏡像的に
同一化するのです」」

ラカン論から作者の言説を引用してみたが、どうだろう。
理解不能というほどでは、ないと思うが。

「主体性とはまず、われわれがある観念性を受肉するために生まれるということだ。
それは人間主体の法的観念性である。その主体性は、生きている写し、イメージの
特殊な種の再生産の中にある、イメージというわれわれ自身としての観念性だ。
そのイメージはテクストである」

ルジャンドルは、述べているそうな。

「社会・<テクスト>としての社会
「話す動物」にとって社会は、イメージやことばの<真>と<信>の
仕掛け、つまりドグマ的組立に支えられた表象(言語やイメージ)の編成を
通して主体的に働きかける。したがって社会は、通常考えられるような個の集合が
作り出す実体としてではなく、主体を制定する機能を果たす言説の織物として、
つまり<テクスト>として考察される」
(『真理の帝国』ピエール・ルジャンドル著 用語解説より)

この引用を補足すると、少しは見えてくるのでは。
さらに、引用。

「世界とはいったい何なのだろうか。それは言葉である。だからそれを
使いこなして意味を生み出させるのだ」
(『真理の帝国』ピエール・ルジャンドル著より)

いわゆるエクリチュール(書き言葉→テクスト)とパロール(話し言葉)の問題。
話し言葉を記録するために生まれた書き言葉は本来代用品であったはずなのに、
いつしか地位が逆転した。
エクリチュールに対して現代人は盲信あるいは絶対視し過ぎているのではないだろうか。

「われわれは、ものを証明するときに、イメージ=テクスト=エンブレムに準拠する」
「ほら、ここに書いてある」

法律から契約書、マニュアル、取扱説明書からケータイメールまで。

フーコーへの言及では、この箇所がひかれた。
「ポリス」の実体、意味するものの変遷史とでも言おうか。

「十七、十八世紀」「「ポリス」という用語は−略−「警察」「公安」という意味を
持たなかった」「それは「司法」「軍隊」「外交」以外の何かであり、
それら以外の「すべて」である」

「国家理性とポリス国家にとっては「異端」となる「新しいテクスト」が、
「新しい統治性」が出現したのである。それは「経済学」だ」
それにより、
「司牧が「宗教」というポリスの対象の一項目にまで格下げされていたように、
ポリスも「警察」でしかないものになり、統治性は根本的に別のものへと
ずれていった。そこで出現したのが「リベラリズム」である」

そして「リベラリズム」から「ネオリベラズム」へ。
新たな「統治性」が現れるたびに、大衆は翻弄されたり、甘言に騙されたり、
コントロールされる。

「このネオリベラズムこそが、最後にフーコーが「生政治」と結びつけたものだった。
−略−フーコーは「資格」を備え、「資格」を常に必要とされる労働者の
身体を「機械」と呼んでおり、資格を求められる社会になっていくと言っているのは
興味深い」
「が、むしろ、端的に労働者や企業人の身体は「人的資本」になるのであり、
生物学は「経済学的分析」の対象になるのだ。つまり「人的資本の遺伝的要素の問題」が
浮上する」」

労働者は「資格」を有し、さらにキャリアアップ・スキルアップし、
肉体的・精神的に健康な優れた労働者へと改造される(する)のだ。
腐ったみかんはもとより、ちょっと曲がったきゅうりも、検品ではねられてしまう。


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