じめじめ

光の曼陀羅 日本文学論

光の曼陀羅 日本文学論

出した企画はボツり、取材は延長となる。
動く予定の仕事は、連絡待ち。
ビジネス本の原稿書きの依頼があった。
丸ごとは無理なので半分のページだけ
引き受けることになりそうだ。


『光の曼荼羅』安藤礼二著の読書メモpart2。


「粘菌は、活動期(原形体)には動物の性質、繁殖期(胞子体)には植物の性質をもち、
そのサイクルを永遠に繰り返す原初の生命体である。そこでは生と死が流動的に
入れ替わり、その円環は絶えることがない。熊楠にとって「少年愛」とは、
そのような永劫回帰する物質の運動そのものと合一することだったのである」

動物と植物をトランスしていく粘菌と男性と女性をトランスした「少年愛」は、
似ているのか。

「この「粘菌」の存在のあり方は、まさに、無数の「私」を産み出しながら
成長と変容をつづける熊楠的主体のあり方と等しい」

「過去の「私」や未来の「私」、それら無数の「私」が、アメーバ状に寄り集まり、
一つの未知なる「私」へと融合し、生成する」

まさに曼荼羅や、顔の絵なんだけど、よく見ればおびただしい人の集合でできている騙し絵、
でなきゃ「ポニョ」(『崖の上のポニョ』)の妹たちをイメージしてしまう。
「「私」という「私」」と「「他者」という「私」」。ややこしや。
だけど、人は、他者を通して、他者からの投影で自分を知るわけだし。
「私」=自我ならば、他我との連関、つまり、間主観性や共同存在は
この場合どう結びつくのだろう。


南方熊楠の曼荼羅論は生命、意識、宇宙を一つに刺し貫く」

ミクロからマクロまで光の波動。そう書いたけど、なんかこの表現って古くね。


「表現の現在において、この「私」という場所は、つねに解かれていかなければならない
「謎」として存在しているのです。その「謎」は、空虚な「器」としてある「私」という
イメージに収斂してゆきます。−略−そこでは自然と人工、精神と機械、オリジナルとコピー
の間に区別をつけることができなくなります。そのようなイメージの培養器としての「私」が
現代的な表現の基礎となる」

DNA複製なのかな。「アウラ」、おまえはもうすでに死んでいる。
「謎」は何もミステリーの専売特許ではなく、文学や芸術などあらゆる表現行為の動機と
言えるだろう。

「万物は照応するという神秘主義的な宗教思想から生まれた、旧大陸フランスと新大陸アメリカ
の二筋の流れ」
「フランスではボードレールランボーヴェルレーヌマラルメと続く「象徴詩」の世界が、
アメリカではエマソンと密接な関わりをもち独自のスウェーデンボルグ主義を主張した父たちから
生まれたウィリアムとヘンリーのジェィムズ兄弟やパースによって「心理学」と「記号学」の
世界が確立してゆくことになる」

この分岐が面白い。「神秘主義的な宗教思想」って平たく言えば
オカルトってことだと思うが、「象徴詩」「心理学」と「記号学」の源流であり、
科学の源流でもある。ユングのマンダラとか。

「つまり「象徴詩」の世界と「心理学」の世界が、一つに重なり合うところに、
折口の『言語情調論』の起源がある」

この本は折口信夫が核となっているが、ぼくは、詳しくないので言及はできない。


アカデミックでもあり、時折抹香くさくもある。本格的な評論。


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