どうなんだろう

世紀の発見

世紀の発見

FAXが会社に入ったのが、ほぼ30年前。
それから原稿用紙にシャープペンシルで書いていたのが
ワープロになったのが、ほぼ25年前。
富士通のデスクトップPC−ぼくのPC初号機−で
eメールをはじめたのが、ほぼ15年前。
便利になったかと言われれば、便利にはなっただろう。
進化したかと問われれば、どうなんだろう。
大事なことや細かいニュアンスで互いの意思の疎通を図りたいときは、
めんどくさくても面つきあわせるに限るし。
相変わらず、文章や企画のとっかかりは、
水性ボールペンでコピー用紙やコピー用紙の裏紙に手で書いている。
検索エンジンはひじょうにお世話になっているが、
何気なく書店でもらった小冊子やフリーペーパー、
図書館に埋もれていた本が福音をもたらしたことも多々ある。


長い枕になってしまったが、『世紀の発見』磯崎憲一郎著を読んでいたら、
なぜかそんなことを思い出した。
冒頭は、家業が仕立屋に生まれた主人公の子ども時代の思い出が記されている。
豊かな自然、友だち、親のことなど。
表紙にもなっている機関車、蒸気機関車が象徴的に出てくる。
しかし、ノスタルジックな文学的な甘美さよりも、
硬質な文明論的なものを読み取れてしまう。
で、大人になった主人公は、「石油掘削設備の技術者」になり、
「ナイジェリア」に派遣されるという、いきなり話は急展開していく。
あえて無謀、強引とも思えるつなぎが、リアリティや深みを生み出している。
異郷の地でありながら、子ども時代を過ごした土地とオーバーラップしてくる。


また話は脱線するが、某建設機械メーカーの入社案内の仕事で、
夜、その会社の会議室から国際電話でチリの鉱山で働いている若手社員を
取材したことがある。
当然、受話器ごしにはいいことしか話してくれなかったが。


10数年ナイジェリア暮らしを経て主人公は帰国する。
そこで老いた親と再会する。仕立屋を細々と営んではいるが。
結婚している彼は、親とは次第に疎遠となるが、
母の病気をきっかけに会うようになる。
自分が子どもだった頃の親の年齢よりも齢を重ねてしまったいまの自分。
なにか居心地の悪いような、胃が痛くなりそうな。


文化が集積して文明となるならば、
人々、家族の軌跡が集積して歴史となるのだろうか。
一見新しいように見えても、実際のところは、変わらない、
旧態然としている。そういうものではないだろうか。


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