哲学と科学のリエゾン

続・複雑系の哲学―21世紀の科学への哲学入門

続・複雑系の哲学―21世紀の科学への哲学入門

縁あって作者の著作を読みつづけているのだが、最近のものは、
どんどん科学の領域に近づいていって、しかも、文体までもが読みやすくなっている。
袋小路に入り込み、抜け出られなくなった従来の哲学を「複雑系」で、
ガラガラポンしてみるという意欲的な試みと勝手に判断しているのだが。

「多様な要素の相互関連によって成り立つ複雑系の世界では、
あらゆる要素は相互に映し合い、相互に浸透し、相互に共鳴し合っている。
そこでは、海の中で音波を出し、互いに連絡し合いながら
集団行動をとっている魚たちのように、各要素は相互に認識し合い、相互に結合している。
そのことによって、世界は刻々として新たに創造されているのである」

つながりとかかわり。リンクやネットワークと言ってもよいだろう。
横文字がお嫌いな人には、因とか縁とか。

「動物は環境から必要な情報だけ抽出し、不必要なものは無視する。
動物は、自分の生命維持にとってその時々に最も重要な情報だけを環境から
抜き出してくるのであって、すべての情報を取り出して解析しているのではない」
「動物は、多様な環境の中を、行為しつつ知覚し、知覚しつつ行為し、
これらを調整しながら、環境に対して柔軟に適応していっているのである」

人間もまた同様であると。ただ、いまどきのぼくたちはどうなのだろう。
「その時々に最も重要な情報だけを環境から抜き出」す能力が衰えているのでは。
直観とかそういう類の能力が。
ネット検索して見つけたいわば他人の請け売り情報だけで満足して。

「<われ考える>の前提に<物や道具の製作>がある。
コギトの成立の前に、ポイエーシス(製作)がなければならない。
デカルト的なコギトは、単に考えること、思惟することだけからは成立しない。
―略―手によって物を製作する能力こそ、自己覚醒の源泉である」

「われ思う。ゆえにわれあり」じゃなくて
「われ思って(同時に)つくる。ゆえにわれあり」ってことなのだろうか。
ベルクソンいうところのホモ・ファーベル。
あるいはキューブリックの映画『2001年宇宙の旅』での猿が石を道具として
使いこなす象徴的なワンシーンを思い浮かべる。
つながりから言うなら「われ」じゃなくて「われわれ」だし。

「科学は科学史であると言うべきかもしれない。―略―科学自身が、
仮説とその変更の歴史であった。科学は永遠不変の真理を語っているものではなく、
それ自身、歴史的に発展してゆくものである。
―略―科学自身が世界の生成変化の過程の中にある」

科学は決して単なるナレッジの集積ではないと思う。
でも、覆す対象(前提)としてのポピュラリティを得た仮説はあった。
ヴァージョンアップしていると言い切れるのだろうか。

願わくば、福岡伸一郡司ペギオ-幸夫山本義隆あたりとの対談を
本にしたものを読んでみたい。どのような人的化学反応を起こすのだろうか。