擬似同期

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

待ち時間で『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』
濱野智史著を読む。
常々ぼくがこのところのインターネット界隈で疑問に思っていたことを
実にわかりやすく解き明かしてくれている。
たとえば、こんなところ。

「ツイッターを「選択同期」、ニコニコ動画を「擬似同期」、
そしてセカンドライフを「真性同期」と分析してきました」

で、ニコニコ動画が興隆して、セカンドライフが期待はずれだったのは、

「擬似同期」のニコ動の方が、「真性同期」のセカンドライフよりも
「「祭りの賞味期限」が持続されやすい」


テレビのバラエティ番組などでやたらスーパーインポーズ(文字)使われているが、
ニコ動は、自分でこのスーパーが入れられる。
つっこみ、ぼけなど。笑ってしまうほど、うまいのもある。
子どもが夜、PC画面越しに、くすくすしていると大抵はニコ動だ。
感覚としては、かつてのラジオの深夜放送に
投稿が読まれていたハガキ職人のようなものか。


ま、いつでも、誰でも参加でき、その場で見られて盛り上がる。
で、後からもどんどん書き込みができ、さらに盛り上がる。
たとえ「擬似」であっても。むしろ「真性」のある意味マジさ加減よりは、
軽くノレるし。

ニコニコ動画ベンヤミンのいう「アウラ」を崩してしまうもの」
いままでは芸術作品は1回こっきりだったが、「写真・映画などの複製技術は
「一回性」」を奪ってしまった」

それをさらにニコニコ動画が進化させたと。コピーの自己増殖。
見るから参加するという。擬似インタラクティブといえないこともない。

「「同期」型のメディアだったテレビが、
(HDDレコーダーやYoutubeなどの出現により)
「非同期」的に消費されていくという、視聴体験の変化を
意味している」

だからといって著作権強化などで既得権益の死守に回るばっかじゃ、
テレビ離れはもうどうにも止まらない。


インターネットは、メディアではなく「場」のようなもの。と作者は言う。

「しかし、あまりにもインターネットが大衆的に普及した現在、
それはもはやいつのまにか巨大に蠢き成長を続ける、
「自然成長的」なものとしても現れています」
「だからといって私たちは、その得たいの知れない全体性に
おびえ続ける必要はありません」


この部分をそっくりそのまま月刊文藝春秋での
村上春樹のインタビューに返したい。
文藝春秋』2009年4月号の村上春樹独占インタビュー
「僕はなぜエルサレムに行ったのか」で
「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」 。
かつての学生運動を「正論原理主義」と、とらえた上での発言。

レッシグの思想の要点は、多様なイノベーションを生み出す、
アーキテクチャの生態系」としてのインターネットに
価値を認めるからこそ、その多様な「生態系」のあり方を支えている、
「生態系のアーキテクチャ」そのものを守らなければならない」

「多様な「生態系」」が肝要なわけで。
それが、ネット上である一つの考えにまとまるというのは、
島宇宙に君臨する強大な帝国でもできない限り、
あり得ないと思う。思いたい。


「インターネットは、いままでのところ、−略−
従来のメディアやコンテンツを
「代替」しているにすぎないともいえる」

なるほど。「代替」ならオリジナリティは、まだないと。
んで水と安全にプラスしてネット(コンテンツ含む)も
タダと思っているぼくたちは、
いつになったらサイフのひもがゆるむんだろう。


今後
「さらにネットワークが社会の隅々にまで
浸透していくといわれます」

「私たちは、社会全体に浸透するに至ったアーキテクチャの設計と
進化を通じて、日本社会のあり方そのものを書き換えていくことすら、
不可能ではないはずです」

どう書き換えられていくのか。次作ではこのあたりを書いてもらいたい。
それと、この手の結びは、おさまりはいいんだけど、ちと食傷気味。


人気blogランキングへ