辺境は遍在する

まなざしの地獄

まなざしの地獄

『まなざしの地獄』見田宗介著の読書メモ。
引用3ヵ所。

「日本の近代化の中で、<都会>のために、性格には都市の資本のために、
安価な労働力をだまって供出しつづけてきた、「潜在的過剰人口」のプールとして
日本の村々、国内植民地として貧しさのうちに停滞せしめられ、
しかもその共同性を風化、解体せしめられた辺境の村々の社会的風土というものが、
その当事者の意識のうちに、一つの根源的な裂け目をつくりだし、
かくも深い自己嫌悪・存在嫌悪の稟性として刻印づける様であった。
このような社会的構造の実存的な意味を、N・Nはその平均値においてではなく、
一つの極限値において代表し体現している」

この文体が70年代って感じで、当時の社会性を意識して描かれた劇画と
通底するものを感じる。たとえば『ガロ』時代の池上遼一の初期の短編とか。
地方と都会の対立図式なんだけど、「安価な労働力をだまって供出」ばっかじゃない。
と、いまならいえる。
都会の儲け(即ち、それは地方出身者の労働のたまものなんだけど)を、
地方交付税などにして、地方は道路だの、立派なハコモノなどをつくるなど潤ってきたんじゃないか。
「潤って」が的確な表現かどうかも検証。
「風化、解体」は何も田舎だけではなくて、現在は、多摩ニュータウンとかでも起こっている。


それから気になったのが、N・N=永山則夫を「極限値」といっていること。
「平均値」の対語といった文学的表現なのだろう、たぶん。
はずれ値って意味合いなのかな。しかし、N・Nとて最初は「平均値」だったわけで、
なぜ「極限値」になったのか。統計学と文学・社会学が混在していて、厄介。
狙いなのだろうが。

「(現代日本の)都市が要求し、歓迎するのは、ほんとうは青少年ではなく、
「新鮮な労働力」に過ぎない。しかして「尽きなく存在し」ようとする自由な
人間たちをではない」

毎日のようにニュースで流れる非正規社員とダブる。
「新鮮な労働力」でもいいが、いまなら都合のいい労働力ともいえる。
既得権益の保守といわれても否定できにくい労組は、どう折り合いをつけていくのだろう。


「われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、
われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、
見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、
われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である」

最後の一文が素晴らしい。幸せの青い鳥は、どこにいる。実は、そばにいる。
実は、天国と地獄は隣り合わせというのか、
案外、実態はおんなじなのに、人によって評価が分かれるってことなのかもしれない。



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