調べていたら

フィジー留学について書かなきゃいけないんで、
もろもろ調べていたら、自分の無知を発見。


フィジー 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
「フィジー系とインド系の対立」って、フィジーってネイティブしかいないんじゃないのって
不勉強ながらてっきりそう思っていたら、間違いだった。


1879年イギリスは1916年まで砂糖のプランテーションのため大勢のインド人労働者を
フィジーに移民させる。その多くのインド人はフィジーに定住したが、
フィジー社会を劇的に変化させる事になる。

なるほど、そういうことか。いわゆるポスコロの悪しき被害だ。
同じ頃、日本人も砂糖キビやパイナップル畑の開墾をするために、
移民がはじまったが、このような表沙汰になるような対立はなかったはず。
これも、ぼくの無知からくる断定かもしれないが。

日本人海外渡航年表
1868年 明治維新、近代日本の始まり。
アメリカ商人ユージン・バンリードが、約150人の日本人労働者を
ハワイの砂糖プランテーションへ送る。彼らは「元年者」と呼ばれる。

近代日本最初の海外「移民」だった「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい取扱を受け、
結局、国家の体面保持ということもあり、明治政府が救出に乗り出さなければなりませんでした。
「元年者」の失敗もあり、政府はこののち二十年近く日本人の海外移住を許さず、
かわりに北海道開拓を推進しました。
バンリード、グアムへも40人の日本人労働者を送る。

1869年
オランダ商人エドワード・スネールが、福島会津地域から約40人の日本人を引き連れ、
カリフォルニア州ゴールドヒルに「若松コロニー」と呼ばれる農業定住地を設立する。
この事業は、わずか1年で失敗に終わり、グループの日本人メンバーは離散することとなる。

1885年
ハワイ王国と日本の二国間条約に基づき、943人の日本人「官約移民」第一陣が出発する。
彼らは3年間、ハワイの砂糖プランテーションで働く契約を結んでいた。
1894年に条約が無効となるまで、全部で26の「官約移民」グループが日本からハワイへ渡る。

1894年
フィジーへ日本人労働者が渡航する。
「移民保護規則」制定。海外出稼ぎ渡航者斡旋業務を、民間の移民会社に委ねる
事となる。」


JANM/INRP-日本人の海外移住より


あれかな、計算高くて(計算に強くて)、商売熱心なインド人が
経済から権力までを牛耳るのは先住民族として面はゆいってことなんだろうか。
ロンドンに昔行ったときも日曜日は白人の店はしまっていて、
インド人が経営するスーパーマーケットで買い物したことがあった。
「フィジーへ渡航した日本人労働者」は、その後、どうしたのだろう。


「若松コロニー」の跡地を訪ねる特集を「ニュースステーション」あたりで見た記憶がある。
名残は何も残ってなかった。

1987年インド系が政権をとるが、5月と9月にフィジー系のランブカ陸軍中佐による
クーデターが起こり10月に共和国宣言をしイギリス連邦を離脱。

南の島々は自然だけ眺めていると、理想的な楽園なんだけど。
宗教対立・民族対立の根は深く、深いどころか、近年、世界のあちこちでとみに激しくなっている。


北海道への移民・移住は国策であって、いまだに国のひも付きであるのは、
成り立ちからしてそうなのであって、いまさら民活とかいわれても国(もしくは道庁)への依存体質は
すぐには治らないと思うよ。


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