みんな、夢の中―140文字では到底おさめきれない、おいらのつぶやき(tweet)

 

 

『太陽が死んだ日』閻連科著 泉京鹿訳 谷川毅訳を読む。

 

昼間、起きているときは、みな、何らかの法律や規範を守ったり、常識や社会的マナーに則て暮らしている。それはある意味抑圧されていることで、ストレスも感じるだろう。ただし、その度合いは人によって異なる。


ところが、「夢遊」という伝染病に罹ると、人々は、良識人という仮面をかなぐり捨てて本能や本心のままに行動し始める。まるでゾンビかキョンシーの集団のように略奪、殺人、放火、レイプなどありとあらゆる悪行を平気でするようになる。


葬具店の倅・14歳の少年、李念念の語りで物語は進む。彼の住む村でも「夢遊」が現われた。彼の父親は母親の兄に薦められて葬具店をしぶしぶ開業する。中国では土葬は禁じられている。土葬を出した家を国にチクって報奨金を得ていたり、「夢遊」がパンデミック状態になると火葬を引き受ける葬具店は大忙し。

 

人間を焼いたときに出る油、「屍油」も、貯まり放題。実は高値で取引されていて、母親の兄はこれで財を築いた。


なぜか、この小説内に著者・閻連科が登場する。彼は新しい作品を書こうとしているが、なかなか書けない。生みの苦しみ。意外にも李念念は村で唯一といっていいぐらい閻の過去作を読んでいた。途中までのようだが。なかなかに鋭い批評眼を持っていて作家に容赦ない感想を述べる。


「夢遊」病の集団。それはいまの中国の人々のメタファーかもしれない。人権や言論の自由は認められず、コロナ禍では外出を禁止され。夢を見ることは国家でも禁止できないだろう。でも、したりして。中国ばっかじゃないな、同時代の人々にに言えることかも。


「夢遊」病が蔓延している村。さらに上空を雲が覆って陽ざしを遮る。ずっと夜。目覚めるときがない。悪夢のような一日。彼の父親は溜め込んだ「屍油」に火をつけ、太陽の代わりにするが。


最後に。主人公の一人称に「おいら」を選択したのは、ぴったり。救いようのないパニック小説の救いとなっている。

 

んで、この「夢遊」が中国人ツーリストとともに、東京に上陸する。というおもんない続篇ネタが浮かんだ。

 

いま、読んでいる『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選』に、ラブクラフトが引用したボードレールの一文があまりにもシンクロするので紹介。

 

「眠りという、我々が夜毎行うあの不吉な冒険に関して、我々はこう言ってもよいだろう―人は毎日就寝するが、その大胆さは、危険を知らぬ故であると承知しなければ、とても理解出来ぬものであろうと―ボードレール」(『ヒュプノス』H・P・ラヴクラフト著より)

 

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漱石や鴎外と名づけられたら…

 

 

名作とウワサの高いジュンパ・ラヒリの『その名にちなんで』が、今週の通勤本。
なるへそ。同じ作者の『停電の夜に』も、感心したが、この作品もかなりのもの。

 

ゴーゴリ」とケッタイな名前をつけられた少年を含めたインド系アメリカ人の一家の話。村上春樹の小説には「カフカ」という名前の少年が出てきた。

漱石」とか「鴎外」とか、女子だったら「一葉」とか。
もしそんな名前をつけられたら、ヤだろうなと思う。

哲学好きのオヤジだったら子どもに「ニーチェ」だの「ソクラテス」だのか。
しかもキラキラネームのていで。「尼千恵」とか「祖久良照数」とか。

 

ぼくは「アキラ」っていうんだけど、よく算数とかの問題に出てくる男の子の名前が
アキラで、そのたびにクラスの子たちにはやし立てられてヤだったもの。

 

彼が母親のお腹の中にいた時のことや、産まれたあたりの周囲の人々の反応など
なんか読んでで懐かしかった。

アメリカ文化に対しての異化や同化などがきめ細やかに書かれている。

 

ぼくも妻も地方出身者なので、インドに里帰りする気分がなんとなくわかるし、
アメリカ生まれ・育ちのゴーゴリが、自分のルーツであるインドにセルフ・アイデンティを見出せないのも自然な成り行きじゃないかなと思う。


えーと、インドというと、カレー。
昔、ロンドンで妻の友人夫婦に案内されたカレーショップのカレーがうまかった。
「こってりしてるんで、お腹、こわすかもしれないよ」と
いわれたけど、スパイシーで美味、バクバク平らげた。お腹も平気だった。

土日はほとんどの店が休みだったけど、
インド人が経営する小さなスーパーマーケットが開いていた。
お土産にビッグペンのミニチュアをそこで買った。

 

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「亡命文学論」沼は、底なし、底抜け

 

『亡命文学論 増補改訂版』沼野充義著を読む。


「亡命」というと亡命ロシア人がまっ先に浮かぶが。

 

「大量のロシア人亡命者の体験を通じて描き出された亡命文学の風景は、二十世紀のロシア文学が世界にもたらした貢献の一つとして挙げられよう」

 

まずは、ナボコフ

 

「亡命者の体験(特に言語に関わる体験)は個人差が大きく、一概には論じられない。バイリンガル作家として有名なナボコフの場合―略―ロシア語から英語に執筆を切り替えたのは亡命という環境によるところが大きいが、―略―彼のバイリンガル性は亡命後に獲得されたものでは決してなく、革命前ロシアの貴族社会に備わっていたバイリンガル的性格ゆえである」

 

ええとこのぼんだったナボコフ。フランス語もできるそうなのでトリリンガルか。

 

「二十世紀末にソ連から亡命した作家の中にも、ソルジェニーツィンのようにアメリカ合衆国で二十年間亡命生活を送りながら、アメリカ社会とはほとんど接触を持たず、英語圏での生活の影響をまったく受けなかった作家もいる」

 

アメリカに逃亡しても執筆環境、生活環境はソ連のままだったとか。


「長篇『紙の光景』やアメリカ体験記『悲しきベビーを求めて』を書いたワシーリイ・アクショーノフや、ニューヨークでのどん底生活をもとにスキャンダラスな自伝的小説『ぼくはエージチカ』を書いたリモーノフのように、日常的な環境の中で使われる英語にロシア語が侵食される過程を克明にテクストに記録した作家もいる」

ソ連ではちょいと知られた作家でもアメリカに翻訳本が出ていなければ、ただの人。
仕事もブルーカラーしかなくてプライドを切り裂かれた作家もいたそうな。

 

亡命作家は何もロシア人だけではなくて。

 

ポーランド出身のゴンブローヴィッチは、アルゼンチン滞在中に第二次世界大戦が起こりポーランドに帰国できないまま、亡命。彼はポーランド語で執筆した。面白いんだが、頓挫した『フェルディドゥルケ』や『トランス=アトランティック』などの作品を改めて読みたい。

 

また、ミラン“存在の耐えられない軽さ”クンデラは、「プラハの春」事件でソ連ににらまれ、チェコからフランスに亡命。チェコ語からフランス語で執筆するようになる。
それは自分のテクストを多国語に翻訳される場合、本人の意図するものとズレが生じる。ならば、翻訳を通さずにフランス語で書けばいいと。

 

違うかもしれないが、村上春樹がなぜ世界各国で読まれているのか。翻訳されてもニュアンスが異ならない日本語で書いているからなのだろう。デビュー作『風の歌を聴け』は、書き上げた日本文を英訳してそこから日本語に翻訳したというが。リーダビリティーという観点が同じだと思うが。

 

ニューヨークにロシア人街があっておいしいロシア料理が味わえることはガイドブックかテレビの旅番組で見た記憶がある。この本にも出て来る。


「遊園地で有名なコニー・アイランドの隣、ブライトン・ビーチ」。
「ブライトン・ビーチは、合法的な出国ビザを得てソ連から移住してきたユダヤ人たちが、一九七一年代以降に作り上げた一大コミュニティなのである。―略―その総数は約二十五万人にのぼると言われている」

 

ロシア人、ユダヤ人、ロシア系ユダヤ人。ううむ、その違いが。

 

ゴーゴリは確かにロシア語で作品を書いたが、―略―ウクライナ人であった。強硬な民族主義的なウクライナ人の目には、そのゴーゴリがロシア語で作品を書き、ロシア文学の枠内に入っていったことは「裏切り行為」にさえ見えるらしい」

ロシアの文豪・ゴーゴリってウクライナ人だったことをはじめて知った。

 

いやあ、熱い、厚い本。いままで知っていたことが、きわめて薄っぺらいものだったことをイヤというほど知らされる。んで、紹介される作家や詩人たちの作品は、未読のものばかりで、ブックガイドとしてもうってつけ。年々読み書きのスピードが落ちてきているんで死ぬまでにあと何冊読めるだろうかと、ぼんやり思う。

 

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等身大の科学とは

 

 

 

寺田寅彦と現代 等身大の科学を求めて』池内了著を読む。


寺田の著作は、岩波文庫から出ているものは、ほとんど読破した。そのたびに、新発見や再発見があり、文字通り目からウロコがポロポロと何枚も落ちた。池内の手になるこの本は、寺田の著作から寺田の科学への思索、はたまた現代の科学への影響・功績をさぐるというもの。CDでいえば鋭敏なライナーノーツで、まさに寺田科学を検証するのには、適宜な書き手といえよう。

 

ガラスの割れ方や金平糖のできかたなど有名な寺田の実験や観察、洞察が複雑系、フラクタクルなどにつながっていると述べている。

 

「街上で神輿が不規則な運動をしている状態はブラウン運動と似ているし、百貨店の売上高と日々の売り上げとの相関や地震と漁獲量の関係、銀座通りを歩く人の統計から『平均人』の歩行経路の推定など、いろいろな問題が考えられる。寺田は、専門家の間で、このような手法が疎んじられていることを憂い、『科学の進歩を妨げるものは素人の無理解ではなくて、いつでも科学者自身の科学そのものの使命と本質とに対する認識の不足である』と断じている。」

 

金平糖に関しての作者の説明。

 

金平糖(あるいはクラウン・リンク)に角が生えるのは、糖分が集積する過程で球の表面に小さなゆらぎが生じ、それが不安定(ゆらぎが原因となってますますゆらぎが成長すること)によって増幅するためである」

 

「等身大の科学」とは。

 

「日常身辺にはさまざまの科学の種が潜んでいるのである」


作者は「それを『等身大の科学』と呼んでいる。サイズが等身大で、研究費も等身大で、誰でもが参加できるという意味でも等身大である科学として、気象や気候、生態系、地球環境問題などを対象とするのである。これらはすべて『複雑系』であり、多数のデータを何年にも渡って集積する必要がある。また、これらに共通するのは「『循環するシステム』という点」である。

 

また、「文系の知と理系の知を結び合わせ、二つの文化を再度撚り合わせる『新しい博物学』」が必要であると。良きお手本が、寺田寅彦なのである。

 

「雪の研究は、弟子の中谷宇吉郎が引き継いだ」

 

寺田の生きた時代と中谷の生きた時代の違いが、そのまま両者の科学観への違いとなっていることを知る。広島・長崎に落とされた原爆をリアルタイムで体験し、第二次世界大戦後の米ソ冷戦状態を知れば、(アメリカに留学経験のある中谷は親米派だったそうだが)やはりペシミスティックな気分が中谷に大きな影を落とすわけで。と、容易に想像できる。


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ゆめのような うつつのような まぼろしのような

 

 

『アーモンドの木』ウォルター・デ・ラ・メア著 和爾桃子訳を読む。

 

子どもが主人公。一見メルヘンチックでありながら、
時には悲惨、時には幻想的、時にはゴーストチック。
じゃあ怪談話といえるのかというと、そのあたりは微妙。
「訳者あとがき」によると、「朦朧(もうろう)法と呼ばれる文体」だそうだ。
日常と非日常の際(きわ)をあえてぼやかせる。
確かに何かいるのにあえてその正体を明かさない。
五里霧中を読み進むとバリ夢中になるって感じ。
エドワード・ゴーリーが挿絵を描くくらいだものね。
数篇の紹介をば。

 

『アーモンドの木』
「伯爵」というあだ名・ニコラスの子どもの頃の思い出話。ヒースの原野にたたずむお屋敷暮しの彼。父親は不在がちだった。それは愛人・ジェーン宅に入り浸っていたから。彼は父親に愛人を紹介される。それを知って怒り心頭の母親。母親は彼を通して夫に復讐しようとする。聖バレンタインデー、両親の諍いを目撃する。雪の降る中、出て行った父親。


『ミス・デュヴィーン』
たぶん心を病んでいるお隣さんのミス・デュヴィーンと少年アーサーは知り合いになる。彼女は聞きもしないのに恋話など自らの過去を一方的に話す。それは現実なのか妄想なのかわからない。次第に会うのが煩わしくなったアーサー。会うことを避けていたら、病が悪化したのか彼女が亡くなったことを知る。内心、ほっとする。

 

シートンの伯母さん』
再読。シートンは同級生で学校で浮いた存在。彼は伯母さんからいつも高額なお小遣いをもらっていた。ウィザーズは彼に誘われ、伯母さんに会いに行く。ご馳走を振る舞われながら、シートンへの不満を聞かされる。
伯母さんは亡くなった父親に代わって財産の管理をしていた。それを知っているシートンは伯母さんを毛嫌いしていた。伯母は見えないものが見えるという。屋敷には「やつら」が、ごまんといるとシートン。そして彼は中退してしまう。
連絡があって久しぶりに再会した二人。シートンと老いた伯母の心の溝はいっそう深くなっていた。結婚直前にシートンは謎の死を遂げる。

 

『クルー』
クルー駅に降りた「わたし」は、けったいないでたちの男から声をかけられる。ブレイクと名乗った彼は以前牧師館で下働きをしていた。そこの庭師が余りにもひどい所業で彼は口下手な若者経由で牧師にそのことを告げさせる。首になった庭師は、納屋で首を吊ってしまう。それから異変が起きる。
ブレイクたちが見たものは。岡本綺堂が生きていたらこの作品を翻案して『半七捕物帳』の一篇にしたかもしれない。おっと、余談。

 

『ルーシー』
石屋敷と呼ばれる豪邸に未婚の三姉妹がいた。祖父が一代で築いた富も後を継いだ彼女たちの父親の代でしぼみ出し、彼女たちがいざ相続したら、資産はわずか。商売の才覚などはお嬢様たちには到底望めず、彼女たちの加齢とともに屋敷も庭も荒廃していく。ルーシーとは、三女・ジーン・エルスペスの想像上の友だち。『アンネの日記』に
出て来る心の友・キティ―のような存在。女中や執事を首にして自分たちで不慣れな家事をするが。廃屋同然の石屋敷。すっかり老いた三女が庭の池を覗くと、水面に映っているのは。

 

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あなただけを愛したい―その思いが

 

 

『オーディション』村上龍著を読む。

 

村上龍がサイコホラーを書くとどうなるのか。

 

主人公・青山は、大手広告代理店から独立し、映像制作会社を経営している。妻に先立たれた彼は、息子のすすめもあって再婚を決意する。再婚相手を友人に依頼すると、なんと架空の映画のオーディションという形式で捜すという大掛かりなものであった。

 

多数の応募者の中から、一人の女性に惹かれる。山崎麻美、24歳。一目ぼれである。陰りのある表情、どこか亡き妻にも雰囲気が似ている。彼女の謎の過去、家族に関しての告白の信憑性などから、友人は彼女をいぶかり、交際が深入りするのを忠告するが、彼は、何度か会っていくうちに、ますます彼女のトリコとなっていく。

 

主人公は、妻への喪失感を彼女の存在で埋めようとしたのだろう。委細構わず、彼女にのめり込んでいく。そして彼女と一夜を共にするが、そこから怖さは加速度を増していく。

 

彼女が欲求したのは、究極の愛、ピュアな愛だった。彼は、愛をまっとうしようとする彼女の餌食になっていく。愛するがゆえに、愛する人を独占したい。二人の愛を二人だけの永遠のものにせんがために。気持ちの針が、反対側に触れると、ストーカー行為などの犯罪に走ってしまう。しかし、その境界線(ボーダー)は、実は薄皮一枚なのだということを深く感じさせた。

 

作者のどの作品にも共通しているが、やはり本作にも、日本や日本人の今の気分が表現されている。怖さを充分楽しめる。また最近薄れつつある親子の理想的な関係にも、珍しく作者の父性をうかがい知ることができる。

 

スティーブン・キングの短編を彷彿とさせる見事なサイコホラーに仕上がった。と結んでしまうのは、ほめすぎだろうか。

 

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フェミニズム虎の巻

 

 

フェミニズムってなんですか?』清水晶子著を読む。

 

文字通りフェミニズムについて広く、深く、簡潔にまとめた本。最初に読むのはもちろん、なんか難解なフェミニズム本を読んで頭が混乱したとき、思考の整理にも役立つ。

そうか!と思ったところを適宜引用。

フェミニズムは本来「女性は結婚して子どもを持つのが当たり前でしょ」というようなマジョリティの考え方に異を唱えたところから出発したはずなのに、マジョリティに近い立場にいる人ほど、自分の経験をどの女性にもあてはまると経験と思い込んでしまうワナにはまりがちです」


「「同じ女性同士だからわかりあえるはず」ではなく、「私とあなたは同じ女性であってもちがうし、あなたの経験を私はよくわからない」ということを確認しあって、そのちがいの背景にある差別や抑圧の構造への理解を深めていくことが大切なのです」

 

同性でもちがう。ちがいを認め合う。

 

医療従事者や介護関連従事者はなぜ「報酬や待遇」が低いのか。特に、ヘルパーや保育士など後者のほうだと思うが、この一文で腑に落ちた。

 

「その理由の一つに、育児や介護、さらに食事を用意したり家を整えたりという日常の家事などのケア労働全般を、女性が担わされてきたことがあります」

 

これらの「家庭内での無償労働=ケア」という観点から「ケア労働の価値」が「正当に評価されない」と。

 

「しばしば女性に適しているとみなされた介護や保育、看護などのケア労働は、無償労働の延長線上のように扱われ、低賃金に抑えられてきました。これは実際に女性の経済的自立の芽を奪うと同時に、女性とはそもそも男性に「支えられ」「保護され」なくてはならない存在、「自立」できない存在である、という偏見を強め、女性たちを家庭内の無償労働にさらに強固に繋ぎ止める役割をはたしました」


「自立した女」って叫ばれてから久しい。いつものダジャレで恐縮だが、「パート106万円の壁」は乗り越え、扶養は不要ってことにしないと。


「血縁をベースとした親族関係の基本ユニットとしての「家族」制度」の疲弊もしくは終焉。上野千鶴子は「ネット縁」をあげていたが。

 

「(女性にとっての)「依存」か「自立」かという二者択一が、それ自体、偽の選択であることも、私たちは常に思い出しておく必要があります」


とかくお上や男性は、そういう踏み絵を女性に踏ませてきた。踏まなくていい。あるいは、破壊してもいいだろうと。

 

「「自立」の要請を、どうやって自己責任論に回収させておかないでおくか。「自立」しなくても一人の人間としての権利と尊厳をもって生きていける社会をどう作るのか」

 

自助でもなく公助でもなく、共助。換言すれば、セーフティネットだと思うのだが、これまでの地域ではなく、「ネット縁」のような新しいスタイルで。

 

フェミニズムは「自立」の先に向けて、あるいは「自立」の再構築に向けて、考えていかなくてはならないのです」

 

ヴァージニア・ウルフあたりを再読してみよう。「フェミニズム」、「ケア」、「(女性の)自立」などで新たな気づきがあるかもしれない。

 

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