異界はボクらを待っている

 

 

『十四番線上のハレルヤ』大濱普美子著を読む。

装画のインパクトで手にした。6篇の幻想短篇小説集。版元が版元ゆえ一筋縄ではいかないだろと読み始める。いろんな味わいがして、しばし異界へと誘われた。やっぱりな。各篇の内容と感想を手短に。

 

『ラヅカリカヅラの夢』
「5年ほど前に見知らぬ町」のアパートに引っ越してきた教師(たぶん)の米子。海沿いにある町で「屑屋の源さん」やアパートの下に住む「オコモリさん」、占い師(予言者)の「ヤニバア」など奇怪な人々と出会う。埠頭には「奇態な魚が打ち上げられる」。
米子は行きつけの「ジャズ喫茶青帳面」で『ラヅカリカヅラ』のことを知らされる。「この地方の固有種」。稀になる実を食べると「子供が生まれるという言い伝え」がある。そうこうして彼女は伝説の『ラヅカリカヅラ』を探しに行く。ラブクラフトばりの、のっぴきならない光景が描写される。

 

補陀落葵の間』
サキコの母親が再婚した。新しい父親にはサキコと同じ年齢の美樹がいた。サキコは勉強ができるが引っ込み思案。美樹は勉強は苦手だが、可愛らしいルックス。対照的な二人。新しい父親は単身赴任先の中東で亡くなる。残された三人はそれでも安穏に暮らしていた。母親から叔父が亡くなって旅館を相続することになった話を切り出される。母親はその旅館を切り盛りしたいと言い出す。旅館をみんなで見に行くことになる。

ここから、話が入れ子構造、メタフィクションとなる。サキコたちの話とどうやら旅館に関わる母親の縁者の話。彼岸と此岸。リア充のサキコたちと囁いてる彷徨える先祖の霊たち。その対比が素晴らしく、ゾクゾクする。思わぬところで話が交差する。


『十四番線上のハレルヤ』
霊能者の両親から生まれた「私」。「「人」に対する記憶」は優れていた。学生時代に住んでいた「都市を10年ぶりに」訪ねた。十四番線の路面電車に乗る。あるエピソードを思い出す。女性の検札係が来たが、買ったはずの切符が見つからない。失くした!プチパニックになった私。突如、車内のどこからか歌声が聞こえてくる。歌うアコーデオン奏者。そばにいた男が何かを手渡す。私の切符だった。そして「ハレルヤ」と唱える。
記憶の底から再び朗々とした「ハレルヤ」が、空耳か。失われし時を探す旅。

 

『鬼百合の立つところ』
百合子は花屋の店長をしている。長身瘦せ型、楚々としており、いかにも百合という感じ。客としてあらわれた「あなた」。その存在が気になり自宅まで後を追う。あるとき、偶然街で見かけた時もその行く先が気になって尾行する。ほぼストーカー状態。
アルバイトたちから「鬼百合」と呼ばれていることを知る。「鬼百合か」。葬儀用の花束を注文した「あなた」。住所と名前は知っている。彼女はまた「あなた」の部屋を覗きにマンションの避難梯子を登る。


『サクラ散る散るスミレ咲く』
本名は「スミレ」なのだが、「ツミレ」と言ったら亡くなった父親が喜んだので以来「ツミレ」と名乗ることにした。薬剤師をしている母親が兄とツミレを育てる。彼女は知的障碍児らしく、いじめの対象に。ただしその自覚もさほどない。母と兄は彼女を懸命に守る。
本人はのほほんと生きているが、最愛の兄を若いうちに失くす。母親もいつしか老いを迎える。ツミレが還暦のとき、母も亡くなる。いろいろな思い出が頭の中で交錯する。母の死を悲しむより、かすかに聞こえる祭囃子が気になる。お祭りに行きたい。外見は老いても内面には幼い少女が棲んでいる。

 

『劣化ボタン』
VR(ヴァーチャル・リアリティ)がテーマ。急にナウになる。VRショールームとかVRゲームセンターとかがあるが、ついに住まいの内装もVR化。好みでボタン一つでゴージャスにも、ナチュラルにも選べる。単身赴任することになった「僕」が選んだのは、そんな最新型の部屋。
選択肢にグレードアップがあるのはわかるが、グレードダウンがある。仮想落ちぶれ空間か。グレードダウンを選んだわけではないのに、なぜか部屋の様相がひどく貧しくなっていく。VRシステムのエラーなのか、それとも「僕」の心のエラーなのか。どことなくシャーロット・パーキンス・ギルマンの『黄色い壁紙』をイメージさせる。

 

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赤貧笑うがごとし

 

 

無能の人つげ義春著を読む。何遍読み直しただろうか。

 

志ん生ではないが、どうしてビンボー話が始まると、居合わせた、たいていの人は、盛り上がるのだろう。たぶん、それはかつてビンボーだったとか、ビンボー的-ここが肝心、ビンボーとビンボー的は一見似ているが、全然違う-なものを好む癖があるようだ。じゃあ、随分前に流行った『清貧の思想』かと言うと、そういう高尚なものじゃなくて、ひたすらゲスなもの、ゲスであればあるほど、あさましくて笑える。

 

たとえば給料日前、なけなしの一万円を倍にしようと、勇んでパチンコ屋へ行って、ものの見事にすってんてんになるとか(実話)。京都土産でもらった生八つ橋のアンが酸っぱくなっているのに、空腹に負けて晩飯がわりに平らげてしまい、激しい下痢になり医者通いするはめになり、結局高くついたとか(半分実話)。人間も植物みたいに光合成が可能だったら、食費がかからなくていいなあとかとか。

 

仕事の注文がない時や、予想外に稿料が安かったりして、気分が憂鬱になる時は、本棚の奥に仕舞ってあるつげ義春の漫画本を取り出して読む。


初期作品集や温泉探訪物も良いが、最も愛読しているのが本作だ。題名からしてまるで自分のことを言われているようだ。

 

ストーリーを一応紹介しておくと、つげファンならおなじみの売れない漫画家が主人公。でも本人曰く「描けないのではない、描かないのだ」と。多摩川べりの公団に住んでいて、ある日、多摩川にそれこそ無尽蔵にタダで転がっている石を拾って売る商売、石屋を考えつく。そこから探石というきわめてマニアックな世界が描かれている。

 

いままで骨董商売、中古カメラなどに手をしては結局、失敗していた漫画家に対して妻はいい顔をするわけもない。団地のポスティング(チラシ投函)や新聞配達などで糊口をしのいでいる妻からすれば、「漫画、描いて」と懇願するのは、至極当然なわけで。
ま、とても他人事とは思えないわけで。

 

「ねえ。お金にもならないレビューを書いている暇があるなら、知り合いのデザイン会社に営業の電話の一本でもいれてよ」
「はいはい…でも今はズーム営業だしなあ」。いざ外回りに行っても、ムダ足に終わる今日このごろ。でも、帰りにブロック塀に座っている見知らぬキジトラ猫に
声でもかけられれば、幸せになってしまう。

 

川崎長太郎葛西善蔵上林暁など日本の私小説家の作品を彷彿とさせる作風だが、中でも好きなキャラは野鳥を捕らえて碌を食む鳥師で、映画版『無能の人』では、故神代辰巳監督が演じていたが、そこだけフェリーニのモノクロ映画っぽくて、すごおくカッコ良かった。神代辰巳週間とかで特集を組む時は、ぜひ、その鳥師に扮したワンカットをポスターにしてもらいたい。

 

あと、捨て難いのは、古本屋の山井。古本屋の未亡人とねんごろの仲になり、そのまま居着いてしまうというインチキ臭い男のエピソードも泣かせる。作者自身も、喫茶店古書店経営などの小商いを考えていたそうだ。などが述べられている巻末インタビュー『乞食論』は、いわばメーキング・オブ・つげ漫画として必読である。

 

本作は新潮文庫筑摩書房の『つげ義春全集』で読めるが、ぜひ、オリジナルの日本文芸社版を入手されて読むことをおすすめする。

 

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あげるな。誉めるな―学校、家庭、会社での報酬を批判する 

 

 

本書は、「広く支持されている『競争』に異を唱え」、名著の誉れ高い『競争社会をこえて』の続編ともいうべき作品。まずは、アメリカ社会の根底を支えている行動主義批判から始まる。行動主義について作者はこう述べている。

「われわれは考えるよりも行動することを、理論よりも実行を選ぶ国民であり、インテリを信用せず、テクノロジーを崇拝し、帳尻を合わせることから離れられないのだ」

いやあ、鋭い。アメリカに歯向かう敵対勢力に対するアメリカ(政府)の態度は、この一文に集約されるのではないだろうか。

 

その行動主義の最たるものが、報酬であると。報酬は何も子どもに勉強をやらせるためだけの手立てではない。「報奨」「褒美」「賞」、「インセンティブ」…。ノルマを達成したら報償金がもらえる営業マンなど、学校、会社、家庭、考えてみれば、この世は報酬だらけである。

 

また「誉める」ことも作者は「言葉による報酬」だと規定し、批判している。叱り上手より誉め上手になろうなどとその手の育児書やビジネス本が山のようにあるというのに。そのいわば一般常識だと思われていることを、実証例を踏まえながら、実に小気味よくロジカルに反論している。その反論が、なるほど!と、無理なく自然に入って来る。

 

たとえば、読書。本を読んだ子どもに、褒美としてお菓子を与える子と、本を読んでも何も与えない子がいる。褒美につられて、読書する子は、最初はよく読むが、やがて褒美の魅力が低下すると何も与えない子よりも本をよく読まなくなることが紹介されている。同様に、出来高払いも、社員を鼓舞させるカンフル剤には決してならないと。いわゆるアメとムチは百害あって一利なしと。

 

モノで子どもを釣るのは良くないといわれるが、それはたいていは道徳心から来るものであるが、このようにデータで実証的に示されると、考えざるを得ない。では、馬の鼻先にニンジン作戦でないとするならば、どのようなことをすれば、動機づけ、流行の言葉でいえばモチベーション、それになるのだろう。

 

そんなときは、巻末の事項索引を引いてみよう。丁寧につけてある事項索引は、先生、親、管理職、それぞれ立場は違えども、たぶん、それぞれに、役に立つ。

 

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『ナウシカ考 風の谷の黙示録』を読みながら、マンガ版『風の谷のナウシカ』を読む

 

 

 

ナウシカ考 風の谷の黙示録』 赤坂憲雄著を読む。
民俗学や哲学などからマンガ版『風の谷のナウシカ』を読み解いでいる。
面白くてためになる。

 

この本を読みながら、マンガ版『風の谷のナウシカ』全7巻宮崎駿著を何十年ぶりかで読み返した。すっかり忘れていた。長くて濃くて深い。ワイド判だからマンガ単行本より大きな判型なんだけど、それでもコマワリが多くて描き込みもすごいので読むのに時間がかかる。

 

アニメーターゆえ動きのカットが素晴らしい。メーヴェで自在に空を滑走するナウシカ。迫力ある空中戦。その浮遊感、疾走感。王蟲や虫たちの凄まじいモブシーン。

腐海、粘菌、胞子、大海嘯。

 

で、ストーリーにさまざまなテキストがぶち込んである。しかし、人気ラーメン店の秘伝のスープのように、渾然一体。

 

序文をまるごと引用。

 

ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は 数百年のうちに全世界に広まり巨大産業社会を形成するに至った 大地の富をうばいとり大気をけがし 生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は 1000年後に絶頂期に達し やがて急激な衰退をむかえることになった 「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し 複雑高度化した技術体系は失われ 地表のほとんどは不毛の地と化したのである その後産業文明は再建されることなく 永いたそがれの時代を人類は生きることになった」

てな話。「火の7日間」に出動したのが、かの巨神兵

 

ナウシカのモデルが堤中納言物語の『虫愛づる姫君』は知っていたが、
それだけではなく「ギリシャ叙事詩『オデュッセア』に登場する王女に由来」しているそうだ。

 

作者はマンガ版『風の谷のナウシカ』の構造をドストエフスキーの小説の構造に見立てている。ミハイル・バフチン曰く

ドストエフスキーポリフォニー小説の創始者である」

と。
すなわち、

「「それぞれに独立して互いに溶け合うことのないあまたの声と意識」が、あくまで多声的に交錯しながら織りあげてゆく」

と。それが似ていると。

 

マンガ版『風の谷のナウシカ』って、大枠としては『指輪物語』や『ナルニア国物語』などのハイ・ファンタジーの正統な系譜であると思うのだが。

 

次に「ほお!」と思わせたのが、ハイデッガーの『技術への問い』からの比較考察。
訳者・関口浩の「後記」からの長い引用。

「しかし、現代のさまざまな危機が技術的に解決されたとして、すべてが適切に機能するに到ったとして、その世界はパラダイスなのだろうか?これがハイデッガーの問題とするところである。「水素爆弾が爆発することなく、地上での人間の生命が維持されるとき、まさにそのときにこそ、アトミック・エイジとともに世界の或る不気味な変動が始まる」」と、ハイデッガーは言う。原子爆弾水素爆弾の管理が完璧に行われた世界、地球環境のコントロールが技術的にみごとに機能している世界、すべての労働者がついに正当な権利を保障される世界―余暇時間を保障された労働者たちは、休日をたとえば高度に技術的に組織されたレジャーランドで過ごすに違いない―、すべてが機能化した世界で、すべての機能が十全に機能しても、問題は解決するわけではない。むしろそういう世界でこそ技術の問題がいっそう先鋭化する、というのがハイデッガーの言わんとするところなのである」

引用した序文と見事にリンクする。

ならば、『風の谷のナウシカ』は、アポカリプス、ディストピアを描いた漫画なのだろうか。作者は首をふる。

 

「マンガ版『風の谷のナウシカ』は、『黙示録』をなぞった作品ではなく、黙示録的な終末観にたいして叛旗をひるがえした作品」

であると。同感。

アニメーションは多くのスタッフが必要だが、マンガは一人でも描ける。
遠慮なしに、妥協なしに。アニメワークの空き時間にようやく描き上げた。

 

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『マルチチュード(上)(下)<帝国>時代の戦争と民主主義』昔、書いたのに若干プラスして

 

 

 


ネグリ=ハート-現代思想界の藤子不二夫-が提唱する「マルチチュード」。よくわからないが、おもしれえ。


マルチチュード(上)(下)<帝国>時代の戦争と民主主義』アントニオ・ネグリ マイケル・ハート著 幾島幸子訳を読む。(上)(下)の生煮えレビュー。昔、書いたのに若干プラス。

 

たとえば旧来の帝国軍隊は『伽藍とバザール』でいえば、統率のとれた伽藍方式。トップダウン。一方、ゲリラは文字通りゲリラで分散的知性、バザール方式だった。
んでもって軍隊がいままでのスタイルでは通用しなくなり、畢竟、ボーダレスな「ネットワーク状」にカイゼンしたと。それはパスク・アメリカーナ(「アメリカによる平和」)という名のグローバリゼーションにも同様のことがいえる。

 

「社会経済的な観点から見れば、マルチチュードとは<共>的な労働主体であり、言いかえればポストモダン的生産の現実的な<肉>である。と同時にそれは、集合的資本がグローバルな発展を推進する身体[=集団]に変質させようともくろむ対象でもある。国家がマルチチュード有機的な統一性に仕立て上げようとするのだ。労働にまつわるさまざまな闘争を通じて、真に生産的な生政治的形象としてのマルチチュードが立ち現われるのは、まさにここである」

 

おんもしれえや。「マルチチュードの概念」ってやはりよくわからないんだけどね。

以下引用。

 

「これまで共産主義者社会主義者は一般に、貧者は資本主義的生産過程から排除されているため、政治組織の中心的役割からも排除されなければならないと論じてきた。そのため従来の政党は主として主導的な生産形態に従事する前衛としての労働者で構成されており、そこに貧しい労働者や、ましてや失業者の入る余地などなかった。貧者は危険な存在とみなされていた。貧者は、泥棒や売春婦、麻薬常習者などと同じく生産に関与しない社会の寄生虫であるがゆえに道徳的に危険であるか、あるいはまた組織をもたず、予測不能な行動をとり、反動的な傾向をもつゆえに政治的に危険であるかのいずれかだというのである」

 

ここで述べられている「貧者」とは、マルクスいうところのルンペンプロレタリアートだろう。まるで反社勢力みたいな扱い。

 

「ポストフォーディズムの時代にあっては、かつて支配諸国の労働者階級の多くの部門が当てにできた安定し保証された雇用は、もはや存在しない。労働市場の柔軟性と呼ばれるものは、どんな職も確実ではないということを意味する」

 

フォーディズムは大量生産・大量消費だったが、
ポスト・フォーディズムは欲望がキーとなり、多品種少量生産となった。
フォーディズムが横並び、人並みなら、ポスト・フォーディズムは差異化、差別化ということ。このあたりならおわかり願えることだろう。

 

雇用の流動化とは、このこと。たとえばAIや移民による作業の代替化など。
非正規社員の正規社員化と正規社員の非正規化もある。
終身雇用制なんてなくなるってこと。

「物質的生産―たとえば車やテレビ、衣服、食料品などの生産―は社会的生産手段を作り出す。近代的な社会生活形態は、これらの商品なしには成立しえない。これに対して非物質的生産―アイディア、イメージ、知識、コミュニケーション、協働、情動的関係などの生産―は社会的生活手段ではなく、おむね社会的生そのものを創り出す。非物質的生産は生政治的なものなのだ」

 

「非物質的生産」って「第四次産業」のことかな。
第一次産業(農林水産業)、第二次産業(製造業・建設業)から第三次産業(金融・サービス業)が全盛となったいま、モノじゃなくてサービスやコンビニエントが商品なわけで、それを製造しているなら虚業じゃないよな。昨今流行の「Web2.0」にならえば、新たに「第四次産業」としてIT系企業を包含してしまえばとも。いいじゃんと思ってgoogleってみたら、ちゃんとあった。

 

「こうした生政治的生産は固定的な時間単位で数量化できないがゆえに測定不能なものである一方、資本がそこから引き出す価値は―資本は決して生を全面的に捕獲することはできないがゆえに―常に過剰なものだということである」

 

終わらない拡大再生産。
このあたりバタイユの『呪われた部分』とリンクする部分があるように思われる。
くわしくは改めて。でも、確約はしないよ。


生政治に食い物にされている圧倒的多数を誇る非富裕層。
しかし、群集になれば、協同的知性により新しい政治体制、社会を構築するということをいいたいのだろうか。

 

監修者のあとがきによれば「「共」とは「コモン」の訳語」だそうだ。
レッシグの「クリエイティブ・コモンズ」に感化された言葉のようだが、
インターネットと協働の分散的知性と「マルチチュード」が、どう関連付けられるのか、これもまたぼくには明解ではない。

 

本書に出てきた「白いツナギ運動」*がカッコよかった。

 

「1990年代半ばのローマ」で白いツナギを着た反グローバリズム集団が「大都市で大規模なレイブパーティ」を夜な夜な開催した。ストリートレイブパーティーはそのままデモとなり「各地の都市へと急速に進行した」。「次第に警察との対立が深刻化して」いき、警官たちも重装備するようになり、それに応じて彼らも白いツナギに白いニーガード、レイブのトラックも装甲車風に「改造」した。やがて彼らは「メキシコの反乱支持グループ」と共闘を組むようになる。その理由は「グローバル資本が作り出した新しい暴力的なリアリティのなかで搾取されているからだ」

 

思想的にどうこうというよりも、ただ単にトランスミュージックを大音量で流してダンスしながらデモをする、その遊び感覚がカッコいい。

東京レインボープライドとか。デモというよかパレード。

 

*「トゥーテ・ビアンケ(白いツナギ)
イタリアで最も戦闘的な反グローバリズム団体。ジェノヴァでのG8反対デモの主要勢力の一つ。トゥーテ=tute(複数形、単数形はtuta)とは、イタリア語で上下ツナギの作業服のこと。」
Societa' & Cittadiniより


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守備範囲の広い作家

 

 

『日本SFの臨界点 新城カズマ 月を買った御婦人』 新城カズマ著 伴名練編を読む。

 

編者の解説を読むと作者はSFのみにとどまらず、ライトノベル、時代劇までこなす。ゲームマスターも。読んでいて洒脱。世界や文体が欧米の奇想小説や奇妙な小説を思わせる。10篇の作品から何点かを選んであらすじや感想まどを。

 

『アンジー・クレーマーにさよならを』
かつて自分の下着やブルマーを売る女子高生が話題となった。この作品では少女たちが下着の替わりに個人情報を売って著名人などの遺伝子情報を買っている。そんな近未来と古代ギリシャのポリス(都市国家)のひとつ、スパルタの物語が入れ子になっている。コルタサルのようなポップさ。ガーリッシュサイバーパンク。女子高生、書くの、うまいわ、マジ。


『ジェラルド・L・エアーズ、最後の犯行』
ジュニアハイスクール7年生のモーリーンと死刑囚ジェラルド・L・エアーズがひょんなことから文通を始めることになる。二人の手紙のやりとりが進むにつれ、なんだかじわじわと怖くなってくる。手紙だからなのだろうか。会えないことがわかっているからなのだろうか。お互い本心と思えることを書いている。女子高生とサイコパスの文面の書き分けが巧み。死刑囚はモーリーンに会えたのだろうか。着地も決まって高得点。

 

『月を買った御婦人』
舞台は19世紀のメキシコ帝国。公爵令嬢で絶世の美女・嬢(ドンナ)アナ・イシドラは、結婚の条件に月を求めた。求婚した男たちは月を得るために競って月に到達する大砲など新しい技術を開発する。何やら『かぐや姫』やジュール・ヴェルヌの『月世界旅行
(ジョルジュ・メリエスが映像化、画像参照)のオマージュか。公爵令嬢のわがままに振り回されるしょうもない大の男たち。

 

『さよなら三角、また来てリープ』
頃は1977年。進学校に通う3人組は、SF同好会のメンバーでもあった。SF好きが高じて学園祭に天使型宇宙船を出そうと計画する。学校側には反対されることがわかっていたので無許可で、あっと言わせようと。「俺」は、親に泣きつかれてようやく受験勉強をする気になって図書館へ。そこでトルーキン好きの美穂と出会う。女子でファンタジー好きとは…。甘酸っぱい学園青春もの。『スター・ウォーズ』がアメリカで公開された年。雑誌『popeye』なんかでさんざん特集しておきながら、翌年までお預けを喰わされていたことを思い出す。作者の思い出とか反映しているのだろうか。

 

『雨ふりマージ』
会社をリストラされた母親。シングルマザーゆえ一家の経済がひっ迫するのは目に見えているその対策として主人公・緑川フランシス真魚たち、家族は人間(自然人)から「架空人」になることを選ぶ。ヴァーチャルな存在として拡散されるのだが。赤毛の女の子マージとの出会い、別れは切ない。

 

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月世界旅行』 (ジョルジュ・メリエスが映像化)

 

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医学生がSF作家になるまで

 

 

スタニスワフ・レムの『高い城・文学エッセイ』を読んだ。

 

エッセイの最初に収録された作品『偶然と秩序の間で―自伝』を読む。
作者はポーランド生まれのユダヤ人。しかも東欧の共産圏のSF作家。

 

脳や遺伝学の学究の徒につこうと、論文をしたためるも、
当時は東西冷戦状態にあって、レムが書き上げた最先端の欧米の科学理論は
反動思想的なものとみなされる。

ルイセンコのトンデモ理論がまかり通っていたし。

 

裕福な医者の息子として育ったが、第二次世界大戦後、生家は没落し、
おもしろ半分で書いた小説を投稿しては、稿料を稼ぐ。
それがSF作家のスタートになる。

 

このくだり、チェーホフと似ている。
偶然だが、面白い。


自伝ゆえに、荒廃したゲットー(『戦場のピアニスト』のように)を
探索するシーンなどが出て来る。文学的ではあるのだが、
この人はエッセイまでが科学理論っぽい。硬質で知的な文体。

それと実作者によるきわめて実践的なSF論が展開されている。
読んだからといってすぐにSFが書けるわけではないが、かなりタメになる。


ギムナジウムが出て来る。

ギムナジウムと聞くと、まっさきにケストナーの『飛ぶ教室』。
禁煙先生にあこがれたもんだぜ。
小学校高学年の学級担任は、ひどかったもんで。
それから萩尾望都の「11月のギムナジウム」かな。

 

この作品の中に、作者と同朋の作家・ゴンブローヴィッチが紹介されている。

ゴンブローヴィッチは、ポーランド舞城王太郎と断言すると、
双方のファンから叱られるかもしれない。

ゴンブローヴィッチは、大昔、集英社から出ていた現代の世界文学シリーズに
『フェルディドゥルケ』が入っていたけど、頓挫した。

 

父親の診察室、工作、そしてナチスドイツ…
よくもまあ少年時代のことを覚えていたものだと、
作者の記憶力に感心しつつ、東欧の歴史や文化の豊かさを噛みしめつつ、
少年の旺盛な好奇心が数々のすぐれた作品に結実した。

気高く、もの哀しく、結晶化した作品。変な日本語だけど。

 

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