永遠の少女-3  ぼくの中の彼女へ

 

 

おにいちゃん―回想の澁澤龍彦
 

 『おにいちゃん 回想の渋澤龍彦矢川澄子著を読む。

 
作者がかつて渋澤龍彦と夫婦だったことを知った時は、かなりびっくりした。
やはり作者といえば名うての翻訳者で、ファンタジーから絵本まで、彼女が訳した本を何冊も読んでいた。

一方、渋澤は確か渋澤財閥の家系に生まれ、サド、リラダンユイスマンスなど退廃、世紀末の毒を若者にふりまく作家として人気を博していた。黒眼鏡にパイプをくわえ、頭蓋骨を置いたポートフォリオが、ぱっと浮かぶ。荒俣宏を腺病質にしたとでも言えばいいのだろうか。
 
本書では、渋澤との出会いや恋愛時代、結婚生活を赤裸々なまでに書き記している。
目次前に、細江英公が撮った、1965年、由比ガ浜での二人の写真が、蜜月時代を物語っている。
 
岩波書店校閲係として知り合った文学少年、文学少女、もとい、東京のええとこの坊ちゃん、嬢ちゃんは、たちまち恋に陥る。

初体験の思い出を書いた文章が、白眉で、ぼくの中のアニマが疼いてしまった。なんてみずみずしいんだろう。その美しい青春のまぶしさに目を細めてしまった。
読むにつれ、二人の関係が単なる恋愛関係ではないことを知る。

作者は、資料を探したり、下訳をしたり、浄書したり、打ち合わせの場に同席したりと、いわば同志、精神的支柱であったようだ。

長男で、下が姉妹で、「おにいちゃん」と呼ばれていた渋澤龍雄が、碩学の人、渋澤龍彦になるまでの間、孵化器の役割を果たしていたことを知る。
 
後年、渋澤が高名になり、鋭さが鈍ったという手厳しい見方を作者がしているのも、最も良き渋澤の理解者だったからではないだろうか。
 

「いまは知名をすぎた少女のもとに、彼の重病の知らせが人伝てに届いた」

 すでに声を発することができなくなった渋澤を見舞う作者。その情景は、映画のワンシーンのようだ。

 

この「知名をすぎた少女」という言葉に、ドキリとする。作者は、この6月に自ら命を絶ってしまったのだが、なにかそれを暗示しているような気がしてならない。
 
ユリイカ』の臨時増刊号が矢川澄子特集号なのだが、そこに掲載されているその頃の写真を目にすると、愛する気持ちは風化しないんだなと柄にもなく思ってしまった。

少女のスピリチュアリティは永遠なのだが、その容器である肉体は永遠ではない。
こんないかにも文学的な表現をすると、心身二元論者かよ!と言われそうなのだが。
 
齢(よわい)を重ねるということは、人それぞれにさまざまな知識や経験を積んで、
本心を隠したり、ごまかしたりする術(すべ)を身につけていくことなのだが、
それらを一枚一枚剥いでいくと、一番中にあるものは、存外、変わっていない。「あの頃のまま」である。
 
 
なぜこんなに胸に迫るのか、それは事実だからだ。でも、事実がすべてそうなるわけじゃない。誤解なきように。