帰国子女の93年の生涯

 

鶴見俊輔伝

鶴見俊輔伝

  • 作者:黒川 創
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/11/30
  • メディア: 単行本
 

 

鶴見俊輔伝』黒川創著を読む。
 
鶴見俊輔の評伝を書くならば、著者が最適。理由はこのエントリーの後半に。
分厚いが、かなりわくわくしながら読み終えた。
かなり大胆に踏み込んだ内容。
それから遺族から提供された数々の写真が時として文章以上に強く迫って来る。
幼少時は絵に描いた戦前の良家のかわいらしいおぼっちゃま。
少年になるとやけに目つきの鋭い顔になる。
親や学校に理由なき反抗をして時代。ふと尾崎豊を連想した。
 

「二度の自殺未遂を起こして、これも含め三回、精神病院(親類の佐野病院)に入院した」
「年上の女性たちとの情事が、それまでのあいだに幾度かあった」

 

自殺未遂の動機の一つが「母の厳しい鍛錬」にあったと姉・鶴見和子は書いている。
 
アメリカで自身をリセット。
ハーヴァード大学で哲学、プラグマティズムを学ぶ。
カルナップ、クワインとほぼマントゥーマンで講義を受ける。
英語はある日突然、霧が晴れるようにわかるようになったとか。
戦時下、日米交換船で帰国するときはどんな思いだったのだろうか。
 
帰国後、すぐさま徴兵検査となる。

「軍属のドイツ語通訳として、海軍に志願」。「インドネシアのジャワ島ジャカルタ」へ。

 

敗戦を迎える。
英語ができる「ハーヴァード大学卒業生」ゆえGHQからの誘いはあったが、
断わり、「無職」の状態が続く。
まもなく雑誌『思想の科学』を仲間、同好の士と発刊する。
鶴見俊輔丸山真男武谷三男、武田清子、渡辺慧
「1951年 思想の科学研究会会員名簿には120名の会員」が載っている。
そうそうたるメンバー。大学時代に心理学を学んだ乾孝先生の名前があった。
磁場となって理系、文系に関わらず新しい知性を引き寄せた。
 
思想の科学』は順風満帆ではなかった。講談社の支援も一時期あったが、諸事情で
打ち切られる。
思想の科学研究会会員が大所帯になるにつれ、世代差などで考えのギャップが生じてくる。
 
雑誌も時とともに風化していく。つーか生き物のようなものでいつしか使命を終える時が来る。
 
「米軍の北ベトナム爆撃」に対抗して、「ベ平連(ベトナムに平和を!市民・文化団体連合)」をスタートさせる。「脱走米兵」支援などおぼろげながら活動を覚えているが、この本で全貌を知ることができた。
 
著者の父親が京都べ平連の事務局長を務めていて、集会に父子で出る写真が出ている。
小学生の時に原稿が『思想の科学』に掲載され、原稿料をもらったそうだ。その縁で鶴見の晩年時代もつきあいがあった。
 
鶴見にとってアメリカは好きで嫌いな国だったのだろう。「米国留学時代の思い出に続けて」アメリカをこう評している。
 

「今日、ぼくはアメリカを好まない。けれども、ぼくたち日本人よりも高い倫理の下に暮らしていることを、身にしみて感じる。日本人の軍人軍属は、ことに中国で理由なしに強盗、サギ、強姦、殺人、暴行をはたらいた。自分の家の外のものにたいして思いやりを持たぬように、自分の国のそとのもにたいして思いやりがないのだ」

 日本の伝統の特徴をこう述べている。

 

「戦争中にさかんに声高に唱えられた思想の流儀が、―略―不謬の普遍的原理をしなえるものとして日本の伝統を理想化しました。それは日本の伝統を歪めてとらえる結果になりました。日本の伝統は、―略―人間を縛るような普遍的断定を避けることを特徴としています。この消極的性格が、日本思想の強みでもあります。普遍的原理を無理に定立しないという流儀が、日本の村に、少なくとも村の中の住民の一人であるならばその人を彼の思想ゆえに抹殺するなどということをしないという伝統を育ててきました。―略―それは西洋諸国の知的伝統の基準においてあまり尊敬されてこなかった、もうひとつの知性のあり方です」

(『戦時期日本の精神史1931-1945年』より)

 

 
現状では共同体的な村は崩壊の危機にある。
曖昧な態度は白か黒かと選択を迫られるようになってきたのではないだろうか。
 
作者はあえて関係者にインタビューをしないで「歴史学で言う一次資料とそれをめぐる
史料批判を重く見た」。
確かに、近しい存在ゆえに客観視しなければ評伝にならない。