- 作者: ジョルジョアガンベン,Giorgio Agamben,高桑和巳
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2007/04/10
- メディア: 単行本
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カン違いして顔から火が出る。
『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』ジョルジョ・アガンベン著 高桑和巳訳を
いま、ゆっくりと咀嚼している。やがて反芻するんだろうね(牛かよ)。
晦渋でない文章、長くない断片の連なりから構成されているこの本は、
さまざまなことを示唆してくれる。
さまざまなことを示唆してくれる。
余りにも有名なゾーエーとビオス。
「(古代ギリシア人は)ゾーエーは、生きているすべての存在(動物であれ人間であれ神であれ)に共通の、生きているという単なる事実を表現していた。それに対してビオスは、それぞれの個性や集団に特有の生きる形式、生き方を指していた」
ラテン語の「サケル(sacer)」には、「聖なる」という意味と
もう1つ「呪われた」という意味があるそうだ。
もう1つ「呪われた」という意味があるそうだ。
「サケル(sacer)」と「サクリファイス(sacrifice)」も似た語感だけど、
後者は犠牲や供儀という意味。
人民は太古は神に供儀したけれど、いまは国家に供儀している(搾取されている)。
後者は犠牲や供儀という意味。
人民は太古は神に供儀したけれど、いまは国家に供儀している(搾取されている)。
試しに、こんなとこを引用。
「難民が(一部略)近代の国民国家の秩序においてこれほど不安を与える要素になっているのは、とりもなおさず難民が、人間と市民、出生と国籍のあいだの連続性を断つことで近代の主権の原初的虚構を危機にさらすからである。難民は、生まれと国民のあいだの隔たりを明るみに出すことで、政治の舞台に、その秘かな前提となっているこの剥き出しの生を一瞬出現させる」
「難民」の部分を置き換えてみよう。
ドラッグがなぜいけないのか。それは身体や精神を蝕むから。
それは労働意欲を損ない、結局は税金を納めなくなるから。
それは近代(現代)国家というハリボテのほころびが見え隠れするから。うーむ。
それは労働意欲を損ない、結局は税金を納めなくなるから。
それは近代(現代)国家というハリボテのほころびが見え隠れするから。うーむ。
「人間の生はいつどのようにして、最初に、それ自体聖なるものと
見なされるようになったのか」
「古代ギリシアのような社会においては、生はそれ自体としては
聖なるものとは見なされていなかった」
小林信彦のかなり前のエッセイに書いてあったが、
「死にざま」という言葉は、あったが、「生きざま」という言葉はなかったと。
「死にざま」という言葉は、あったが、「生きざま」という言葉はなかったと。
「生きざま」が市民権を得たのは高度経済成長時代あたりだと思うが。
死は隠蔽され、それこそ、よりよく生きる、精一杯生きましょう。
精神的にも、物質的にも、だ。
現世利益ってヤツに拘泥するようになったのは、いつからなのだろう。
自己開発セミナーと大して違いないようなものが、もてはやされて。
精神的にも、物質的にも、だ。
現世利益ってヤツに拘泥するようになったのは、いつからなのだろう。
自己開発セミナーと大して違いないようなものが、もてはやされて。
別に刹那的になれとかいっているわけじゃない。
ただ生ばっかりにスポットがあたっているのは、どうなのかと、
きわめて素朴な疑問。
ただ生ばっかりにスポットがあたっているのは、どうなのかと、
きわめて素朴な疑問。
「メメント・モリ(死者を想え)」とは、こういうことだったのか。
(2005年2月2日・3日のブログ再録)