顔は一つじゃない

 

バタイユ (学術文庫)

バタイユ (学術文庫)

 

 

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バタイユ湯浅博雄著を読んだ。

バタイユという思想家は、いろいろな顔がある。
かつてぼくは大学の卒論で果敢にも主に文学者の視点からとらえようとしたが、その範疇にはおさまりきれなかった。
ここ最近になって、ジャン・リュック・ナンシーやジョルジュ・アガンベンの著作を読むと、バタイユの影がちらちら。
バタイユ入門書を読んでみて、どんな顔が見えたのかをざっと書き出してみる。
 
<『バタイユ湯浅博雄著の読書メモ>
 
◆「労働者や下層庶民の曖昧な両義性」
 
○「近・現代産業社会では、資本=貨幣を所有する人々が生産(流通・消費)過程を主導し、「社会の同質的領域」を基礎づける。いわゆる中間階級も、この同質性に包含される」
「しかし、ブルー・カラーの労働者や下層庶民たちは、曖昧な両義性を示す。彼らは一方では生産(流通・消費)過程に組み込まれており、尺度を受け入れている」
しかし、
「工場の外、作業現場を離れたところでは、労働者大衆・下層庶民は、
「同質的な」人間たちにとっては一種の<異邦人>、「別種の」人間だ。
規範や法に従うとは限らない人間、「合理的に考えて」行動する仕方から
すぐに逸脱しやすい人間、なにか荒々しさをおびている人間だ」

 外国人労働者やパート・アルバイト、契約職員、派遣職員など非正規社員

いまならここに付加されるのだろう。プロレタリアアート+プレカリアート
 

○「バタイユの見方では、資本制生産(流通・消費)過程が安定して拡大する限り、こうした<同質性>は揺るぎなく保たれる。つまり、そこから排除された部分、マルジナル化されたエレメントは抑え込まれたままだ」
「しかし、大恐慌による資本主義経済の破綻、大混乱は、社会の<同質性>が揺らぎ、亀裂を受け、分解する危機をもたらした」
「この危機に敏感に反応し、「克服」しようとする運動の一つがファシズムだ。むろんもう一つは「共産主義」的な革命運動である」

 ファシズム」も「共産主義」もムーブメントとして、おんなじだと。

そしてこのあと、ファシズムの「労働者大衆・下層庶民」を対象にした取り込み方を述べているが、現在もほぼこの人心掌握術は踏襲されているのだろう。
「労働者大衆・下層庶民」は無党派と近似値と思ってよいのでは(裏付けデータはないが)。
 
◆「愛するもの同士の共同性」
 

○「バタイユの見方では、<愛の関係>は私と他者とがつねに向かい合う関係である。<愛>は他者の愛を愛し、その欲望を欲する。しかし「他者に承認される」のを求める欲望(ヘーゲル)とは微妙に異なる。<愛>における欲望は自己を消尽する欲望であり、獲得や所有の欲望ではない(変質することもありうるが)。<愛への愛>は、私が抱く意図や志向ではない。<対>の共同性のなかにいる私にとっては、この相手は「私が秘められている」よりもつねにもっと秘められている、という不思議な在りようをしている」

 「消尽」はバタイユのキーワードの一つで作者は「消尽=贈与」としている。

「愛は惜しみなく奪う」のではなく、「愛は惜しみなく与える」のである。
カノジョに何を与えるのか。小金を持っている中年オヤジにとってはマンションやブランド品だったり、貧しき若者男子にとっては詩篇やオリジナル楽曲だったり。
贈与という行為においては等価なのである。
 

○「バタイユの考えでは、<恋愛>が深く生きられるとき、主体は「主体」としてとどまることはなく、対象もまた通常<対象が位置している面>にとどまらない。それゆえ<愛の関係>が白熱するとき、まるで主体と対象とのあいだには一種の合一が起こるように思える。一見すると、愛する者同士の共同性は、いかにも一致や一体化が生じる共同体であるかのように信じられる」

 

愛は幻、共同幻想。同じベッドで眠っていても夢は別々。
 
◆「共同性を持たない者たちの共同性」
 
○「バタイユの考えでは、労働する者、理性的に思考し、ふるまう者としての人間の真実をみごとに衝いているヘーゲル的な<知>と論理は、しかし国家のような共同体を超えられない。主体-の-外の次元、人間においてどこにも到達しようとせず、なにも所有しようとしない部分、完了する、ということがなく、「全体になろう」としない部分に盲目となっているからである。それゆえ「私が関係することの不可能な関係」によって結ばれる共同性に気づかず、共同性とはいつも既に「可能性の関係」によって結ばれることを前提にし、つねにそこへ至ろうと目指していると、考える」
「それに対し、バタイユはむしろ主体-の-外の次元、消尽の欲望の次元における「不可能な」関係に関係づけられることを<共同性>と考える。つねに来るべき出来事となる他者、絶えず逃げ去る他者たちの共同性、いわば「共同性を持たない者たちの共同性」こそが、国家のような共同体を無効にする契機を孕んでいる。こうしたバタイユの<共同体>論は、アクチュアルな射程を持っている」
 
フーコーバタイユクロソウスキー、プランショについて述べた「外の思考」という著作があった。確か、その主旨はドゥルーズいうところの「私の中に<他者>を見出す」ことであるということ。それにならえば「私の中に<死者>を見出す」もアリか。キモイ?

「共同性を持たない者たちの共同性」って具体的にいうと、上野千鶴子が唱える「選択縁」もその一つなのだろうか。
 
消えたぼくのブログから。