『無為の共同体』読書ノート

 

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

 

 

「われわれはぁ~」と、タテ看を背にして、全共闘世代は、キャンパス内でアジ演説していた。「われわれはぁ~」が主語だったが、当時、吉本隆明の「共同幻想論」がバイブルだったらしい。

共同体なんてしょせん幻想にしか過ぎない。てなもんで、
特に田舎から親や一族の期待を背負ってきた人たちには、なおさらウケたろう。
だって、プレッシャーだったと思う。
「立身出世、ナンセーンス」というのは、その場しのぎであっても、
公的抑圧からは束の間、解放されたに違いない。
 
無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考」ジャン=リュック・ナンシー著 西谷 修, 安原 伸一朗訳を読みながら、こんなことが頭をよぎった。
以下気になったところをランダムに抜き書き。レアで召し上がれ。

○「共同体の解体という意識は、ルソーの意識である。ルソーによれば社会とは共同的な(あるいは通い合う)親密さの喪失ないしは衰退として認識され再認され、それ以後一方で否応泣なく孤独者を生み出すと同時に、他方では望みどおりに、主権をそなえた自由な共同体の市民を生み出すとみなされている」

 

○「バタイユが共同体の不在と呼んでいるものは、共同体の純然たる溶解ではないからだ。-略-共同体の不在は、あらゆる共同体がその本質からして求める融合、たとえば「古代の祝祭」をとおして、共同体が必ず、「集団的個と呼ぶことのできるようなある新たな個を創造」するという認識のなかに現われる。共同体的融合は、融合の動きを伝播させる代わりに、分離を、つまり共同体に逆らう共同体を再構成するのだ」

 

○「合一も共同存在もない、あるのは共同での存在なのだ、と。いっさいの存在論は、これまで述べてきたような自己への存在としての即自存在に関する論理なのだから、このように<自己への>もつ<共同での>に還元されるのだ。こうしつ存在論の「還元」ないし全体的な再評価、あるいは転回は、まだあまり気づかれていないが、おそらくヘーゲルマルクスハイデガーバタイユ以来、われわれの元で起こっている」

 

 

○「共同体は、個人性そのものを拵えた後の個人の集合なのではない。というのも、個人性はそのような内部の集合でしか立ち現われないからだ」

 

 

○「共同体とは-略-共同の一存在ではなく、一つの起共同での存在であり、あるいは他者と共に誰であるということ、一緒にいるということなのだ」

 

 

○「共同体とは他者たちの共同体である。このことは、複数の個人たちが自分たちの差異を超えて何らかの共通の本性をもっているということではなく、複数の個人が端的に自分の他性に立ち会っているということを意味している」

 

 

○「だからこそ、「われわれ」とは奇妙な主体なのである。そもそも「われわれ」と言うとき、いったい誰が話しているのだろうか。われわれは存在するのではなく-「われわれは存在しない」-われわれは出来する」

 

 

○「共同体とは有限の共同体、つまり他性の、出来の共同体なのだ。そしてそれが歴史なのである」

 

「われわれは存在しない」は、「女性は存在しない」と比肩するほど誤解を招きやすいが、いえてるなあと思ってしまう。個人的なことだけど、子どもも大きくなると、もはやしっかり他者としての人格が形成(あるいは途上)されていて、「他者たちの共同体」-それをつくづく感じさせられる今日この頃。

○「共同体は他人の死のうちに開示される。共同体はそうしてつねに他人へと開示されている。共同体とは、つねに他人によって他人のために生起するものである。それは諸々の「自我」-つまるところ不死の主体であり実体であるが-の空間ではなく、つねに他人である(あるいは何ものでもない)諸々の私の空間である。共同体が他人の死のなかで開示されるとしたら、それは死がそれ自体、諸々の自我ではない私の真の共同体だからである。それは諸々の自我を一つの自我あるいは上位のわれわれへと融合させる合一ではない。それは他人たちの共同体である。死すべき諸存在の真の共同体、共同体としての死とは、それら諸存在の不可能な合一である。」

 

人は死を他者のそれで知る。ぼくの場合、困ったときの中村雄二郎頼みで、
どっかに関連したことが書いてあったよなあと、書棚をガサコソ。
『術語集』に出ていた。
 

「彼(バタイユ-筆者註)は、コミュニズムが<全体主義国家>に陥ることの根本的要因として、その理想の基盤が生産力中心主義にあったことを指摘している」

 

 

「また、バタイユは、共同性は生きた人間や生にだけ関わるものではないことを指摘した。共同性と<死>とは切り離せない。他人の死によって共同体の本質が明らかになるからだ。つまり、共同体とは、その成員に彼らが死すべきものだという真実を教えるものなのである」

 

 
中村は「無為の共同体」をこうまとめている。
 

「(<共同体> -筆者註) は、有用性の観点を超えて、その本質を<無為>なものとすることにより、かえって、共同体は、固定されたもの、制度化されたものを絶えず解体させる働きを持ち、死の暴力性に対して強烈な生を保持することができるのだ、と」

 

 
共同体というと、「有用性」ばかりに重きを置かれてきた。ある意味、功利的に。
アンチ健康主義とでもいうべきなのか。小泉義之が唱える「病の哲学」もこの範疇に包含できるのではないだろか。生産力じゃなくて病産力や死産力。ま、ごろあわせっぽいが。
 
昔、書いたの再録。