「される」と「する」の間


『中動態の世界』國分功一郎著を読んだ。
前から読もうと思っていたが、決め手は
ギリシャ語の時間』ハン・ガン著 斎藤真理子訳。
そこで訳者がこの本を紹介していたから。
ギリシャ語には受動態「される」と能動態「する」の間に中動態という態があった。
今は埋没してしまったが、温故知新。
中動態的視点を有することが、これからのブレイクスルーの端緒となる。

アリストテレススピノザハイデッガーアレントアガンベン
デリダフーコーなど中動態そのものに論考した人と
中動態という言葉は使わないが、偶然か必然か、
中動態の概念とリンクする論考した人のテキストにあたる。
このアルケオロジーが読んでいて愉しい。

個人的にはフーコーの著作をいちばん多く読んでいるので
フーコーの権力論」を引用する。

マルクス主義的な権力観においては、―一部略―
暴力を独占している階級や機構が大衆を抑えつけている」
「それに対しフーコーは、権力を押さえつけるのではなくて、
行為させると考えた」
「権力は人がもつ行為する力を利用する」


「生権力」。
ふだんは隠れ蓑をまとって不可視なのだが、
最近は油断なのか、荒っぽいのか、
可視化する、しばしば。


権力と暴力は違うと。
ただし権力は「しばしば暴力を利用する」

決してやさしくはないが、重要と思われるテキストが続く。

作者の言いたいところを引用。

「完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも
陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらく
そういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、
自由に近づき、ときおり、強制に近づく。
―一部略―(中動態を理解して、取り入れることで)少しづつだが
自由に近づいていくことができる」

 


二者択一、二項選択は一種の踏み絵である。
行動経済学でいうところの
「選択が多いと人は選べない」。
だから、あれか、これか、にする。
踏むか、踏まないか。
踏まないようで踏む、
踏むようで踏まない。
さて、中動態はどっちだ。
メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』が取りあげられている。
読みたくなった。

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