数学する身体

数学する身体

数学する身体

 

読みたかった『数学する身体』森田真生著を読む。
休刊が決まった雑誌『考える人』に連載中は、
とびとびで読んでいた。

「独立研究者」として無所属で数学研究している作者にとって
アラン・チューリング岡潔は、まさに先達、師的存在なのだろう。
あ、松尾芭蕉もか。
数学史と哲学と数学に関する論考というと頭で考えたように
思われるかもしれないが、作者は身体をつかって考える。
研究室ではなく日々の日常性から思索する。
それが、実にみずみずしく記述されている。

チューリングは、コンピュータが
「計算する機械」から「数学する機械」へ。
やがて「人間のように思考する機械」へ進化することを
信じていた。
そうなりつつある、いま。

長めの引用。

 

チューリングが、心を作ることによって
心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることに
よって心をわかろうとした。チューリングが数学を道具として
心の探求に向かったとすれば、岡にとって数学は、
心の世界の奥深くへと分け入る行為そのものであった。
道元にとって禅がそうであったたように、また芭蕉にとって俳諧
そうであったように、彼にとって数学は、

それ自体が一つの道だったのだ」

 

愚直に言えば、西洋と東洋の違いかも。
小理屈をこねるならば、
『数学する身体』から『身体(化)する数学』へ。
名料理人の包丁さばきが身体と包丁が一体化しているように、
数学も身体と同化している。

この本を読んで数学を学ぼうとする若者もいるはず。
金はないから、賛辞の拍手を掌が痛くなるまでしてあげよう。

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