沈黙するためのことば

望郷と海 (始まりの本)

望郷と海 (始まりの本)

『望郷と海』石原吉郎著の感想メモ。

「「…人々は文字どおり自分を喜ばせることを忘れているのであり、
あらためてそれを学びなおさなければならないのである」
フランクル夜と霧』(霜山徳爾訳)
夜と霧』を読んで、もっとも私が感動するのは、強制収容所から
解放された直後の囚人の混迷と困惑を描写した末尾のこの部分である」


経験者ならでの共感。

「私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、
これにひきつづく三年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように
思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、
ほとんど問題でないといえる。」

戦争神経症、PTSDからの恢復の困難さ。
幸運にも諦めかけていた故国へ帰ることができた。しかし。

「苦痛そのものより、苦痛の記憶を取り戻して行く過程の方が、
はるかに重く苦しいことを知る人は意外にすくない。欠落したものを
はっきり承認し、納得する以外には、この過程をのりこえるどのような
手段ものこされてはいなかったのである」

過酷なシベリア収容所生活。一瞬消去した辛い記憶をなぜ回想するのか。

「体験とは、一度耐え切って終わるものではない。くりかえし耐え直さなければならないものだ」

体験の反芻。

「私の内部で何かが変わらなければならぬ。私はしょっちゅうその声に
おびやかされて、じりじりしている。「変る」ということはどういうことなのか。それさえ私にはよくわからない。おそらくそれは本当に私が変わった時、はじめてはっきりわかることなのだろう。キエルケゴールは「自己であること」以外に、人間には何の希望ものこされていないといっている。おそらくそれが「変る」ということの真の内容なのだ」

キエルケゴールの論考と読後感が似ている。

「「自己であること」以外に、人間には何の希望ものこされていない」

ああ、実存。

「死だけではない。生きること自体が人間にとって不自然である」

 

「私は告発しない。ただ自分の<位置>に立つ」

 

 

声高に反戦を唱えない。代わりに詩を書いた。

「詩とは<沈黙するための言葉>の秩序である」

この断片を補足するであろう部分を引用。

「自分の作品について語ろうとする時に、詩人がぶつかるもう一つの
矛盾は、作品を書くことによってかろうじて沈黙しえたものへ、作品から
ずれた次元でふれなければならないという一種の違和感です。詩における
言葉はいわば沈黙を語るためのことば、沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの、もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、ことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができます」

沈黙をあえてことばで無理矢理に表現する。だから、詩はわかりにくいのか。
読み手は、誤読でもいいから、ことばの意図するものを丸呑みする。

ヨブ記についてふれている。引用しようと思ったが、見つからない。
サタンに挑発された神がヨブに次々と不条理な艱難辛苦を与えるって話。

作者は戦争に人生の本質を掠奪される。国、政治という大きな力に翻弄される。

「<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である」



永遠不滅の真理だろう。この部分、よーく、噛んでみることにする。

道徳を教科化するそうだが、ぜひ、石原吉郎の詩かエセーを。
皮肉とかじゃなくて。切望する。

 

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