精神医学から臨床哲学へ

精神医学から臨床哲学へ (シリーズ「自伝」my life my world)

精神医学から臨床哲学へ (シリーズ「自伝」my life my world)


歩いて帰った翌日は、案の定、へばり気味。
銀座で開いている高校の同級生の陶芸展に行こうと思ったが、中止。
すまん。

J-WAVEの『Life is Music』2回目をうつらうつらしながら聴く。
ふかわりょうの自作の小説の朗読と自前でコンピしたアンビエントミュージック。
先週がアイスランド、今週がポルトガル
沢木耕太郎の『深夜特急』の体温を低くしたような世界。
隣のFM局の『ジェットストリーム』の亜種、進化系のような。
さて、次なる展開は。

『精神医学から臨床哲学へ』木村敏著を読んだ。
誰もが長い一作は書くことができる。
自分史、自伝の類だ。
類型化はできるが、人によって生きてきた軌跡は異なる。
ましてや著者の自伝なら。期待しつつページをめくる。
父親は病院勤務医。級長をつとめるなど、小さい頃から学業優秀。
しかし、軍国少年ではなかったようだ。
作者は音楽にも夢中になり、ピアノを弾く。
特に伴奏には優れていたそうだ。
音感というのか聴く力に秀でていたのだろう。
ドイツ語、フランス語など語学の上達も並みじゃない。
精神病理学に進むのも、聴く力があったからか。
研究医ではなく臨床医をのぞむ。
留学先でのハイデガー、ビンスヴァンガーなどきら星の如き人物との邂逅、
ハイデガー西田幾多郎の哲学を踏まえ、
数々の臨床を通して、「精神病理学」から
独自の「臨床哲学」を構築していく。
実存哲学の草分けヤスパースも精神科医だったそうだ。
だが、診療医とての腕を疑問視しているところが、なぜかおかしく感じられた。
以下、心に留めておきたい箇所を引用。

 

分裂病とは

「個々の人間は、自他の区別のまだ生じていない「種」の一員としての
存在から、ほかならぬ自己自身の死を内に含んだ歴史的存在としての
自己を自覚することによって、その個別化を達成している。
そして分裂病では、この種的存在としての人間が個別的存在としての
自己にまで個別化する過程それ自体に危機的な問題が生じているのではないかと考えた。」

 

「直観診断」で「あいだ」を感じとる

「精神科医が自分の感じに頼って「主観的に」推測する診断ではなく、むしろ精神科医が積極的に自分自身の感覚を道具にして患者から見て取る「まったく特定の」人間的印象―一部略―である。― 一部略―この所見をはっきり見て取るためには、精神科医は自分自身の「自覚」を研ぎ澄まして、患者の「分裂病」を彼と私たちとの「あいだ」という場所の出来事として感じとらなくてはならない」

 

「共通感覚」失調症

「『常識』に相当する英語は「コモン・センス」であって、これは「共通感覚」を意味するラテン語のsensusu communisから来ている。― 一部略―われわれの人間関係は、この常識=共通感覚に導かれているかぎり、自然な自明性を失うことがない。分裂病ではそれが深刻な解体の危機に陥る」

 

現場主義

「この悪しきグローバリズムの時代にあっても、― 一部略―精神科医として、操作診断的な精神医学は捨てても臨床そのものは捨てていない精神科医として、発言する機会は十分に見いだせるのではないか。私が自分の学問的な営みに「臨床哲学」という名を冠するようになったのは、そのようないきさつからである」

文系・理系のセクトを超えた教養。
読んでいて豊かな気分になれたが、
現状、今後の教育体制、特に大学教育のことを思うと、暗くなってしまった。

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