『ドゥルーズと狂気』-1


オードリーの若林やふかわりょうなど
テレビではいじられ、いじめられっ子キャラ、
マキタスポーツ、言うところの“内弁慶”が、
ラジオでは、あら不思議、本領を発揮する。
マキタスポーツのはたらくおじさん」のポッドキャスト
かように発言していた。
しかし、それぞれの立ち位置や役割が、俯瞰できている。

ドゥルーズと狂気』小泉義之著を読む。まとまりのないメモ、1回目。
ドゥルーズの主な著作から、「狂気」にフォーカスを当て、
批評していく。
確かに講義スタイル、あえて話口調でまとめられている。
読みやすいが、決してやさしくはない。
だが、当のドゥルーズよりは、わかりやすい。
ドゥルーズは、難解だ。作者とて、わからないところはあるそうだ。
ぼくやきみのような哲学酢豆腐野郎も、
安心めされい。
ちなみに、生半可な韓国ツウは、酢スンドゥブ。とか言えばいいのに。

たとえば、

「社会体は、器官なき身体のひとつの投影ではない。
むしろ器官なき身体とは社会体の極限であり、社会体の脱領土化の接線であり、脱領土化された社会体の最後の残滓である」
(『アンチ・オイディプス』ジル・ドゥルーズ著)

 

これはどういうことを言いたいのか。
作者は、解釈していく。

んで、木村敏の登場となる。「あいだ」にこだわった精神病理学者。
人間は、人の間と書く。
関係、コミュニケーションなどなど、間で人は人になるとか。
大学時代、何冊か、読んだ。すっかり忘れているが。

「従来の精神病理学は、もっぱらこの「作為体験」自体の了解において
病者における病的な「出会い」の様相を捉えようとしてきた。
しかし、彼を真に分裂病者たらしめているのは、彼が「作為体験」を
抱いているということではなくて、彼が「作為体験」を抱かねばならなかった事情なのであり、「作為体験」がそこからの当然の帰結として―いわば「正常な」体験として―生じてきた根源的事態、つまり自己が自己の行為を何故に他者からの影響と相において体験せねばならぬにかという理由なのである」
(『分裂病の精神病理』木村敏著作集第一巻 木村敏著)

 

作者は、こう述べている。

「症候群だけを見ていては駄目である、「自己形成の過程」「存在論的な次元」「根源的事態」を見なければならないというわけです」

 

取りあえず、木村の著作、何かあったなと、ぬかどこをかき混ぜるように
書棚をさぐる。あった。『精神のトポス 対話現代思想』中村雄二郎著。
ここで対話している。

 

「分裂病が「病気」ではなくて、他人との関連において歪められた「生き方」だという考えは、私自身の内部ではとっくに自明のことになっていた」
(『木村敏著作集第一巻 』)

 

著者は木村の挙げた「離人症の症例記述」を読んで古井由吉の『杳子』を思い浮かべたとも。確かに。

 

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