レガート

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵



『なめらかな社会とその敵』鈴木健著の感想メモ。


これからの社会の在り方をプレゼンテーションした本。
各章によってベクトルが、かなり異なっている。
と、ぼくには思えた。

「この世界は複雑な関係のネットワークでできており、
仏教の世界ではこれを縁起と呼ぶ。その複雑さにふたをする
あらゆる態度は、世界の複雑さから逆襲を受けることになる」


いきなり、かような言説。
ICT(Information and Communication Technology)と仏教思想のリンク。
中沢新一の『雪片曲線論』でフラクタクル理論という言葉を知ったときのような。


「自由意志があるから責任をとるのではない。責任を追及することによって
自由意志という幻想をお互いに強化しているのである」

「自由意志という幻想」。自由と責任。この言葉も曖昧で
良いように使われているんじゃないかな。
リバタリアニズムの定義にドンピシャ。

インターネットの普及で世界はフラット化したといわれるが、
作者はフラットよりも「なめらか」、なめら化でないと述べている。

カール・シュミット(政治哲学)は、政治とは「敵と味方を区別すること」で
あるとみなした」

カール・シュミットの呪縛は、現在も継続している。
それどころか、色合いを濃くしているような。

「人々を動かすのは、もはや閉鎖された空間での規律を獲得するための
合い言葉(watchword)ではなく、パスワードによってひとりが複数の異なる
アクセス権を状況に従って得るようになる。こうした、日常生活の中で
流動的に異なるシステムにアクセスするようになると、もはや個人/大衆
(individual/mass)ではなく、分人(dividua)というべき存在が生まれてくる」

ドゥルーズの「分人」という考え方が、
硬直してしまっている「個人」主義、民主主義をパラダイムシフトする一つであると。
「分人」とは、マーケティング用語でいう「一人十色」みたいなものか。

「マスメディアは、小自由度が大自由度を制御するという意味で【核】的で、
同じ受信装置をもたねばならないという意味で【膜】的なメディアであるのに
対してインターネットは【網】的なメディアである」

【核】、【膜】、【網】というメタファーって
向学心のある若者ならツボに来るかも。
【網】を投げると、魚も獲れるが、ゴミも獲れる。

「公敵なき社会を実現したい。そのためにはどうすればいいのであろうか」


「公敵なき社会」。字面はいいが、政治家ばっかじゃなくてぼくたちだって
敵、対立相手をつくりたがるし、いなければ仮想敵さえもでっちあげようとする。

「今までの国家社会が、「誰かがある属性の人たち(味方)に向けて
別の属性の人たち(敵)を抹殺せよ」と権力に基づいて命令するのに
対し、公敵なき社会では、そのほうが有利だからとか過去の恨みとか、
それらの理由に共感してもらう必要がある。強制力から共感へ、
動員のプロトコルが変わるのだ」

個人、個性という一色じゃなくって、いろんな色を持った分人ならば、
シンクロできる幅も拡大するってこと。
アントニオ・ネグリマイケル・ハートの唱えている『マルチチュード』の
進化系かしらん。なめらか、レガート。
否定・肯定、半々。

1回読んで寝かしといた。
2回目附箋をしながら読んだ。
ひかれたところが違った。
たぶん、読み返すたびに新たな発見や気づきが得られると思う。


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