『性の歴史』三部作 ミシェル・フーコー著に関するノート

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)


快楽の活用 (性の歴史)

快楽の活用 (性の歴史)


自己への配慮 (性の歴史)

自己への配慮 (性の歴史)

昔ブログに書いたもの。自分用に採録しておく。

『知への意志 性の歴史1』 『快楽の活用 性の歴史2』 『自己への配慮 性の歴史3 』

 

ノート(1)

  一見当たり前のように存在しているものやシステム。それは完璧で、未来永劫、強大なも ののように思える。しかし、ほんとうにそうなのか。ふと、沸きあがるきわめて素朴な疑 問をうっちゃっといて、織り込まれたルーティン・ワークの中に小さな幸福を見つける。ゆりかごから墓場までベルトコンベアに乗せられるレディ・メイド(既製品)の一生。

 

 ミシェル・フーコーは、「ちゃうやろ」と、つっこむ。構造主義(本人はそう括られるのを気に入ってはいないらしいが)という知的刀で鋭く斬りまくる。ただし彼は理性の人であるから「Do I T!(やっちまいな)」などという、はしたない煽情は決してしないが。できることなら明かしてほしくない制度の秘密、ふだんは気がつかない(あるいは気づかれないようにカモフラージュしている)ところを、白日のもとに晒してしまう。

んで、『性の歴史1』だ。

 

現代の入口は「ヴィクトリア朝」にあったとフーコーは言う。

 

 「十八世紀に価値を与えられるに至った家族という細胞は、その二つの主要な次元—夫と妻という軸と親と子供という軸—の上に、性的欲望の装置の主要な構成要素が展開することを可能にした(女の身体、子供の早熟、出産の調整、そしておそらくより小規模にではあろうが、倒錯者の規定である)」

 「『性的欲望(セクシユアリテ)』、それは起源においては婚姻というものに集中していた権 力の技術から生まれつつあったのだ。爾後、それは婚姻のシステムとの関係で、それに支えを見出しつつ、機能することを止めなかった」

 家族という概念ができて、父親・母親、子どもたち。それぞれにキリスト教(たぶん)の教 条にのっとった役割(ロール・プレイング)、「らしさ」が求められる。セックスは快楽より も生殖のためものとなり、夫婦が寝室で行うためのものとなった。

 「性的欲望はその開花の特権的な点を家族に置くようになったこと」

 家族単位にしたことで、管理もしやすくなった。非‐家族は、フーコーの唱えたリベルタ ンと同属に見なされたのだろう。

 禁忌が派生する。当然、そこには抑圧が生じる。ヴィクトリア朝が、お固く、がんじがら めだったかというと、さにあらず。ご存知のように、ヴィクトリアン・ポルノ以下性風俗 産業が隆盛をきわめた。コルセットなるものを淑女たちが着用するようになったのもこの頃。

 「重要なのは、まず第一に、人々が性の囲りに、そして性について、真理を産出する巨大な仕掛けを—勿論、最後のところでその真理を隠蔽するにしても—作り上げたということ である。重要なのは、性が単に感覚と快楽の、法や禁止の問題ではなく、真と偽の問様に わたる方法を明らかにすることはできないだろう」

 男性は昼はワーキングマシーンとして、夜はセックスマシーンとして。女性はハウスキー ピングマシーンや出産マシーン、子育てマシーンとして、何の疑念を持たず、忠実なる国 家の僕(しもべ)となり、「生めよ殖やせよ」に貢献している。過去形じゃない。

 「生に対するこの権力は、十七世紀以来二つの主要な形態において発展してきた」

 「その極の一つは、—略—機械としての身体に中心を定めていた。身体の調教、身体の適 性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管 理システムへの身体の組み込み、こういったすべてを保証したのは、規律を特徴づけてい る権力の手続き、すなわち人間の身体の解剖‐政治学(アナトモ・ポリチック)」であった」

 「第二の極は、—略—十八世紀中葉に形成されたが、種である身体、生物の力学に貫かれ、 生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。繁殖や誕生、死亡率、 健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引き受けたのは、一連の介入と、調整する管理であり、すなわち人口の生‐政治学(ビオ・ポ リチック)である」

 「生‐政治学」について、知ったかぶりをしていたが、本来はこういう意味を包括してい た。

 「君主の権力がそこに象徴されていた死に基づく古き権力は、今や身体の行政管理と生の勘定高い経営によって注意深く覆われてしまった」

フーコーブランドの万能ナイフは、個人から家庭、社会、政治などありとあらゆるものに使える。

 「こうして『生‐権力(ビオ・プーヴオワール)[人間の生に中心をおいた権力]』」の時代が はじまるのだ。

あ、誤解しないで。[人間の生に中心をおいた権力]って、いきいきと生きることや人間らしく生きるとかそういうハッピーな個人主義的イメージではない。「生かさず、殺さず」ってことだから。 昨今の家族をめぐるトラブルの多さは、家族の制度疲弊を表しているのではないだろうか。

 『性的欲望(セクシユアリテ)』を求めて『性の歴史2』で、フーコーは、古代ギリシアに遡る。

 

ノート(2)

 

 「八年間の試行錯誤の後に刊行された、第二巻、第三巻は、セクシュアリテの主体の分 析、諸個人が自らの実践を通して性行動を「問題化」する次元の分析へと大きく転進す る。『快楽の活用』では、紀元前五世紀のギリシア文化において、哲学や医学がどのよ うにして性行動を問題化したかを分析し、『自己の配慮』は、紀元前二世紀に書かれた古代ギリシア、ラテンのテクストに則して、この問題化を分析する」」*1


短い文章で実にうまくまとめてある。この引用だけでもいいかな。とマジ、思ったほど。

 「個々人が自分を性の主体として認識するようになる場合に用いられるもろもろの様式を研究することは、はるかに多くの困難を私にもたらしていた」

フーコーの苦闘ぶりがうかがえる。

フーコーはエイズで亡くなり、結局、『性の歴史』三部作が遺作となった。

 第一巻目『性の歴史1 知への意志』とは、かなり読んだ印象が異なる。 的確な表現が見つからなくて困るのだが、論考からエセー。音楽で言えばロックからアンプラグド。この変化にとまどってしまう。 訳者の解説によると、いつも以上に美しい文体なのだそうだが。いかんせん、フランス語は手も足も出ない。フーコーが最後に言いたかったことは…。

なぜ、フーコーは、性現象(セクシユアリテ)のおおもとをギリシャと見なすのか。こう述べている。

 「私は、性行動が古典期ギリシャの思索によって道徳上の評価ならびに選択の領域として考察されたその方法の一般的特色を明確にしたいと思う」

 若者への恋愛観を述べたあたりは、個人的な思い入れがたっぷり。 作者が「《男女両
性愛者》だった」古代ギリシャ人の男性に こっそりと託しているような気がしてならない。

 「要するに若者は、相手が快楽を楽しもうとして求めている何かを、心遣いによって、し たがって自分自身の快楽とは別のことのために与えなければならない。しかし相手が快楽を正当に求めようとすれば、そこには必ず、こちらに与えられる《贈物》[つまり愛欲の]とは全く別次元の、 贈与や恩恵や誓いの代償をともなうのである」

まるでバルトのようだ。古典期ギリシャを称揚したニーチェに倣えば、
 身体はアポロン、精神はディオニュソス的な。

あるいは『ベニスに死す』のダーク・ボガート扮する音楽家アッシェンバッハ。

 『性の歴史2』・『性の歴史3』となっているが、一読したあたりの率直な感想は、フーコーが言わんとするところは、ほぼ同じように思える。ヴァージョン違いといっても過言でははない。読み方が浅いのかもしれないが。

いや、冒頭の松浦の言う「セクシュアリテの主体の分析」、それに費やされた二作と仮定するならば、あながち否定もできない。

フーコーの重要なタームであるところの「主体」。それが『性の歴史』、 正しくは『性の歴史2』・『性の歴史3』では、それまでの意味するものとは異なる。

 「権力は生産する。理性は生産する。理性(啓蒙)と権力は、作る精神において、相互に牽引しあう。理性は権力から自立している、あるいは自立していなくてはならないと、人はいってきた。しかし、理性が作る精神の地平で動くかぎり、同じ作る精神の土俵の上で動く権力と、かならず同質化していく。作る精神に無自覚であると、権力からの自立をど れほどお題目として唱えても、理性は間接的であれ権力の正当化機能を担うことになる」*2

自立=主体に換言すれば、ぼくが引いた今村の一文は まさにフーコーの言説そのものなのだが、この本では、フーコーは新たな主体を提唱している。じゃ、それは何なんだ。

参考文献

*1『現代思想を読む辞典』「セクシュアリテ」の項(講談社 現代新書)松浦寿夫
*2『作ると考える 受容的理性に向けて』今村仁司

 

ノート(3)


  念ずれば通ずで、立岩 真也のWebで、次のような講演記録に遭遇した。例によって回り くどい書き方だけど。「性の主体」あるいは「性の主体性」と言うとき、2つの意味があると立岩は述べている。

 「私たちは、「性の主体性」をめぐって、困難な二重の課題を抱えているように思います。 一つは、α*で説明したように、何らかの形で性の主体性を防御し、護持すること。いま一つは、β*で説明したように、性の主体性の中には、私たちの社会がつくってしまった仕掛けとして、一種の苦痛を与えるようなもの、支配ともいえるようなものがあり、それを自覚した上でその仕掛けを外していく作業も同時に行っていかなければいけないということ。
  つまり、私たちは性の「主体」というものを死守しつつ、なおまた別の意味での性の<主体〉(性に対する支配/「私」の身体に対する支配でもあり、他者の身体に>対する支配でもある)に対する価値の付与、社会的なその仕掛けを、はずしていくと いったこともやらなければいけないと思うのです。

 

α*:身体や性に対して「主体」であると、また主体であるべきだと、はっきり言わなくて はならない場合があります。それはまず、侵入・侵害によって苦痛を受けるのはその人で あり、また快を感じたりするのもその人であって、そうした苦痛を防ぐため、また妨げら れずに快を得られるために、その人に権利を認める等々のことが必要だからです。

 

β*:身体・性・他者…を制御できること、その意味で所有・領有していることに価値が与えられることがあります。そして、それがやはり〈主体性〉と呼ばれます。同時に、受動 的であること、不如意であること、それらがあらかじめ負の価値のほうに割り当てられる ことになります。」

フーコーが言いたかった「セクシュアリテの主体の分析」とは、咀嚼すると(されてない かも)、こういうことなのではないだろうか。『性の歴史� 自己への配慮』の訳者あとが きでは、このように書いてある。

 「実際、『快楽の活用』と『自己への配慮』における」倫理のライトモティーフとは、 道徳規範や知に依存することなく、われわれは生の美学を探求し、自己との関係のなかで こそ、自己を創出できるという主張である」

ぴんと来なかった。修辞学的には、満点の答かもしれない。そうじゃなくて、フーコーは、 有用だ。だったら、どこが有効なのか。指針となるべきものがなければ…。

ひょっとして、これってフーコーの先達ともいうべき、ハイデガーの「脱自」やバタイユ の「非‐知」と近似値、うろ覚えなのだが。オートポイエーシスの概念に似てないことも ないけど。

わかりやすく書くことと、カッコよく書くことはたぶんに並び立たないんだけど、漫然と生きるに値するじぶんの人生を送ろうってことなのかなと。ま、ひじょうに泥臭い帰結なんだけど、こういうフレーズしか浮かんでこない、残念だけど。主体といっても、それこそ、権力の「隷属」は断ち切れないし、大なり小なり、どっかからのヒモつきの主体なんだけれども、そこらあたりを承知の上で、生きる。それこそ「社会的な仕掛けをはずし、はずされながら」。それは法律に反することかもしれないが。じぶん、しっかりせいや!そんなエールをフーコーは、この著作からおくっているような気がしてならない。

 

 性的抑圧は現代のものだなんて思っていたら、実は18世紀からはじまっていた。けれど、抑圧以上に性はさまざまなカタチで発露(ほつろ)していた。個人や企業や社会が倫理や道徳の必要性を説いているけど、古代ギリシャやローマに原型はすでにあった。ゲイとして異端者の悲しみ、疎外感をたぶん、ひとしお感じていたフーコーだからこその慈愛に満ちた文章で、反証を試みている。

 

この続編にあたる原稿かゲラがあるらしいのだが、フーコーは、どんなこ とを書いたのか、読んでみたい。それよりも、存命していたら、遺伝子工学など生命倫理をテーマにどんな斬新な切り口を見せてくれたろうか。


 参考文献
「性の「主体」/性の〈主体〉」
 立命館大学大学院先端総合学術研究科教授  立岩 真也


人気blogランキング