なぜ、いま、カール・シュミットなのか

カール・シュミット入門講義

カール・シュミット入門講義

カール・シュミット入門講義』仲正昌樹著の感想メモ。

以前のエントリーなめらかな社会とその敵』鈴木健著感想メモでも取り上げられていた、カール・シュミット
著作に直接当たったけど、どうもピンとこなくて、この本にすがることにした。
盛りだくさんの中身から、気になった箇所を引用。長め。


ポストモダン系の現代思想は、(理性の)内部/外部の境界線に拘り、内部にいる“私たち”の視野には入ってこない「他者」をどのように扱うべきかを問題にしてきました。万人に通用する普遍的理性があると想定し、理性的なものを追求すると、“理性的でないもの”を放逐することになる。自由民主主義によって、万人の権利を保障しようとすると、自由民主主義という仕組みを脅かす存在を、放逐、抑圧することになる。そういう正義のための理性的な線引きによって、かえって見えなくなる「他者」が“いる”ことを執拗なまでに問題にしてきました。「友/敵」の境界線をあからさまに強調するシュミットの理論は、「他者」問題の本質を露わにしていると見ることもできる。だから、デリダやムフは、シュミットに注目するわけです」


民主主義制度が制度疲労を起こしている。劣化しているが、代替となるべきものがない。ないとは断言できないか。なら、模索中。
かつてはナチスご用達学者として忌み嫌われたシュミットやハイデガー
再評価されるのも、このあたりにあるようだ。特に、シュミット。


フーコーや、ジェンダー・スタディーズあるいはカルチェラル・スタディーズ系の議論では、「規範」が各人の内面に定着し、「標準=正常」から外れないように振る舞わせる、ということが強調されます。それが、フーコーの言う「生・権力」です。シュミットは、その手の文化左翼的な議論はしそうにないイメージがありますが、「生活関係の正常な形成」」に言及したり、そこから生じる「事実上の正常性」が、「規範」の「内在的有効性」の一部になっていると言っているあたり、意外と近い発想をしているように見えますね。無論、ポスト・モダン左派が「規範=正常性」を解体しようとしているのに対し、シュミットはそれを維持したいわけですが」

新左翼新右翼が、似ているような感じだろうか。
「標準=正常」というのは、金八先生の加藤の名言「腐ったミカン」を思い出す。
「腐ったミカン」が1個あれば、まわりのなんでもないミカンまで腐っていく。
だから、「標準=正常」という物差しで、排除しなければ。危険分子、精神障碍者などなど。

 

「ポスト・モダン左派がシュミットを評価するのは、アメリカ中心の国際秩序のように普遍的正義の名の下に、「敵」のない世界を作ろうとすると、“敵”が全面的に異分子化、非人間化され、それに対する闘いが余計に過酷になっていくことを、彼がいち早く見抜いていたからです」

 

「「敵」のない世界」を作」るなんて、無理だろう。桃太郎は人間界なら鬼退治の英雄だが、
鬼界から見たら、侵略者・略奪者以外の何者でもないだろう。

 

「(自分にとって)悪性の細菌がいない世界があればいいのだが、悪玉菌を完全に排除しようとすると、善玉の細菌を殺してしまうかもしれないし、強力な薬を使うことで、自分の身体そのものまで破壊してしまう恐れがある。だったら、適当なところで、悪玉を許容しながら生きることを考えないといけない」

 

なぜか抗がん剤の作用を思い浮かべたが、この考えを支持するに一票。価値多元化社会だよね。まさか、シュミットとドラッカーがつながるとは。

新興宗教や自己開発セミナー系の殺し文句にこういうのがある。
「自分の短所を直して、長所をさらに伸ばす」と。
一見、素晴らしいように思える。
ところが、長所と短所はうらはらで、たとえば良く言えば「慎重」、悪く言えば「臆病」とか。



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