明るい部屋

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

『明るい部屋 写真についての覚書』ロラン・バルト著を読んだ。
バルトは久しぶりに読む。
何が好きだろ。単純に好きというところからだと『遇景』になる。
モロッコのサウダージ感が、散文詩のような文体に描かれていた。


「私は写真が三つの実践(三つの感動、三つの志向)の対象と
なりうることに注目した。
すなわち撮ること、撮られること、眺めることである」

と、ツカミはOK。

「「写真」のノエマ《それはかつてあった》が、
あるいは「手に負えないもの」である」

フッサールの提唱した「ノエマ」を用いて解釈していく。

「「写真」は過去を思い出させるものではない。−略−
私が現に見ているものが確実に存在したということを
保証してくれる点にある」

映像と比較して写真は平板であると。
しかし、平板ゆえ伝わるものがある。1枚の力とでも言おうか。

「「写真の時代」は、革命の、異議申し立ての、テロ行為の、
爆発の時代、要するに我慢しない時代、成熟を拒否する
あらゆるものの時代でもあるのだ」

明るい部屋でフィルムかつてはガラス乾板に撮られたものが、
暗い部屋で現像され、写真となり印画紙に焼かれる。
要するに紙としての写真は
人の記憶が色褪せるように、褪色し、消滅すると書いている。
「滅びの美学」か。
デジタルカメラや写メが主流となり、撮りっぱなしのまま、
膨大なデジタル画像がそれこそサルガッソー海に漂っている
いまをバルトはなんと言うのだろうか。
しかも劣化しない、しにくいということを知ったならば。
作者の母の死と生前の母の1枚の写真が、
この本を書くことになったとか。


メイプルソープの記述が出てきて驚いた。
まだバルトはこの頃、生きていたんだ。


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