- 作者: 高田明典
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/01/15
- メディア: 単行本
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「渋谷川どぶくさい 俺汗くさい 君みずくさい」
というフレーズ(阿呆リズム?)を思いついたが、昨日の渋谷川は
ゲリラ豪雨のせいで勢い良く水が流れ、くさくなかった。
昨日の渋谷川は、水嵩が減っていたが、そうでもなかった。
『現代思想のコミュニケーション的転回』高田明典著の感想メモ。
「コミュニケーション的転回」とは「「存在・モノ・私」から「認識・言葉・みんな」への変化」
即ち
「「個人知から共通知へ」の流れ」
を意味する。
IからWeへ。間主観性だの世間だの間だの、関係、リエゾンだの、さんざいわれてきた。「転回」は、ちょっと前に流行った言葉でいうならパラダイムシフトか。
「私たちがわかりあおうとするのは、「わかりあえない存在である」からです」
来たね。この口説き文句にグラっときた人には、一読をおすすめする。
さらに、
「親友や恋人や伴侶であっても本来的にわかりあえない存在であることは当り前のこと」
だけど、
「「わかりあえた」というのは、双方が納得しうる合意に到達できたということです」
相互理解と合意は違うわけだ。なんか外交にもビジネスにもいえるような。
「「存在を引き受ける」他者が存在して初めて、私たちの「自」の存在が
確かなものとなるということです」
はじめに個、ありき。ではなくて、
さまざまな他者からのピースで構築される「私」というジグソーパズル。
作者はレヴィナスを引きながらこう述べている。
「そのときに重要となるのが「他者の顔」です。私たちは、その「他者の顔」を見ることによって、その人間が、確実に「他者として存在していること」を知ります」
顔色を伺うというが。
「わかりあえなくても合意はできます。さらに言えば、わかりあえない存在であるからこそ、合意が重要となるはずです」
妥協や譲り合いなど現実的な解決の一手法かも。
「ウィトゲンシュタインは「人は、一人ではルールに従うことができない」と指摘しました。」
「(社会的な―註ソネ)定義がまったくされていない状態で、有効に言葉を使うことはできません」
「ティン―トゥミーの「顔交渉理論」」を取り上げながら、
人は文字通りFace to Faceで
「コミュニケーション行動をとる」
「ここで重要なのは、私たちの「顔」は、言葉でできているということです。
もちろん、顔は、私たちがそれぞれ持っている価値観の一部です」
レヴィナスだよな。難解だけど。
ジュゼッペ・アルチンボルドの野菜や果物で構成された絵をイメージしてしまった。顔中、言葉がすべて漢字だったら、「耳なし芳一」になるけど。
「ここで面倒なのは、自分が保持しようとする「自己像」としての顔は、相手が自分をどう見ているかによっても影響され、形を変えてしまうことがるということです」
ふと思う。Facebookというネーミングは秀逸なんだなと。
実名&画像、特に顔は、男女の別を問わず見てしまう。
で、なぜか知っている人か、会ったことのある人か、判別してしまう。
挙句の果てに誰かに似ているとか。
そうか!と思わせたり、気づかせてくれる部分が多々あり、
ありがたい内容なのだが、いかんせん図がわかりにくい。
図はテキストの理解促進の一助としてにあるんだけど、いっそのこといらないんじゃないのかな。
憶測だが、ビジネス書の体裁をとってとっつきやすくしようとしたのだろうか。
「言葉の機能の中心は「伝達」ではない」
この小見出しに思考停止状態。
もう一度ウィトゲンシュタインあたりを読んでみないと。
昔書いた関連レビューを。あわせワザ一本で。