伊藤文学

改訂 文学入門 (講談社文芸文庫)

改訂 文学入門 (講談社文芸文庫)


といっても、元『薔薇族』編集長に非ず。
『改訂文学入門』伊藤整著の読書メモをだらだらと。
あの「カッパブックス」として刊行され、「その当時10万部」も売れたそうだ。
いくらその当時、ええと「1954年」か、作者が流行作家だったとはいえ、
この極めてまともな内容で10万部とは。

「日本の文学者たちが社会から逃げて、はいっていったのは、文壇という
特殊な世捨人の気風のある小社会であった。そういう意味での文壇というもの
が確率したのが、明治40年(1907年)ごろであった」

伊藤はこの「社会への批評を文学の中でしなかった点がヨーロッパの文士と
違っている」と述べている。
自然主義が母胎なのに、なぜか「身の上話である」私小説が誕生した。
作家たちは、虚構ではなく、自虐、諧謔ネタを通して
逃亡、破滅など「人間の真実の姿を求めて」いったとか。

堕ちていく自分、そこでつかむ真実。
一般の読者は、世捨て人気分を私小説でヴァーチャル体験していたそうだ。

「古い小説では、善玉と悪玉の対立で物語りが書かれたが、新しい小説では
人間の心の中の、愛情や我欲の対立と変化を描くことが小説だ、という風に
考え方も変わって来たのである」

いま思いつくのは映画、バットマンの『ダークナイト』なんだけど、
「人間の心の中の」悪玉が描かれていた。
「善玉と悪玉の対立」勧善懲悪って古くさいか。
一回りして新しくないか。

「この場合、考えなければならないことは、人間の育ちが
人間の思想を左右する、ということである」

その好例としてお坊ちゃま文学者集団「白樺派」をあげているが、
普遍的かもしれないが、どうだろう。
一昔前の知識人で、若いときサヨク、反体制、
歳とったらウヨク、体性という図式もあるわけで。
作者はマルクス主義文学に対して厳しい。

小説家、詩人、評論家という作者の立ち位置からの
文学考は、時には実作者ならではの手の内や本音がのぞいている。

「小説芸術があまり模様化した時には、それをもう一度原質的なものに
書きなおす必要がある。その意味で記録文学は、散文芸術の出発点に
あるものとして最重要視されなければならない」


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