古い新しいって

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力宇野常寛著の読書メモ。以下、つらつらと。

「社会の流動性が上昇し、非正規雇用が「普通」のことになった現在、
生業とは基本的に「入れ替え可能」なものであり、社会的分業に誇りを見出し、
生きる意味とすることができる人間は基本的にごく少数に限られる」

問題なのは「非正規雇用が「普通」のこと」でも構いやしない。
要は非正規雇用でも人並みに暮らしていける給料がもらえるようになることだ。
また、仕事に継続持続性を持たせるためには、「入れ替え可能」でなければならないわけだし、
部品扱いされようとも、そこでの上達などを図るのは、やりがいになるし、
大げさにいえば、自分の居場所になるのではないだろうか。

「私はゼロ年代を「郊外化」に象徴される「モノはあっても物語のない世の中」と
表現しているが、この『ALWAYS』に描かれた昭和三十年代は何もかもが、「ゼロ年代」と
正反対の関係にある。−略−昭和三十年代が「暖かくて不自由な社会」であるのに対し、
ゼロ年代の現代は「冷たくて自由な社会」である」

いま(ゼロ年代)が「モノはあっても物語のない世の中」で「冷たくて自由な社会」で、
昭和三十年代がモノはないけど物語のある世の中、「暖かくて不自由な社会」である」。
一見カッコいい文章だが、果たしてそういい切れるのだろうか。
「懐かしい」という言葉があるが、人は過去をよく振り返る。
過去はできあがっているし、おまけに記憶は自分の都合の良いように修正美化しがちだし。
安心して甘美な思い出に浸ることができる。
辛かったり、先行き不透明ないまから逃げ込むショックアブソーバー的役割をしているのかも。
だから昭和四十年代でも昭和五十年代でも同様のことがいえる。
暖かい・冷たいは、血縁・地縁、日本の共同体をいっている意味はわかるが。
有史以来、人は「昔は良かった」といい続けてきたのでは。

「「何に価値があるのか」を世の中が与えてくれない時代―そのかわり、
いまだかつてなくある意味自由な現代を生きる私たちは、「生きる意味」を
自分で獲得して生きていかなければならない。」
「無自覚にコミットすれば、誤配を回避するための排除の論理―他の島宇宙を
攻撃し、「内部」と「外部」を隔てるための暴力―が発生するこの小さな物語に、
どう誤配と柔軟性を確保し、開かれたものにしていくか。
それが私の考える決断主義の克服である」

宮台真司東浩紀の『郵便的不安たち』をミクスチャーしたような。
あるいはそれこそ60年代のテント芝居のアジ科白のようなものもなぜか感じる。
で、「九十年代の」「古い想像力」から派生した「セカイ系」的ひきこもりから、
たとえセカイが素晴らしくなくてもせいぜいエンジョイしようぜと、
作者は、クドカン(宮藤官九郎)や木皿泉脚本のTVドラマや『銀魂』、
よしながふみのマンガを「新しい想像力」「ゼロ年代」の生き方の好例としてあげる。
昔でいうモラトリアムか。あげられてもなあ。


内容は面白いが、よく読んでいくと、どうも安直というのか、浅漬けというのか。
東浩紀を仮想敵にしていて、違いをいろいろあげているが、
正直なところ、違いがわからない。
砂糖だったら、ショ糖とテンサイ糖の違いぐらいにしか思えない。
ぼくが編集者だったら、思想系雑誌のTVや演劇、マンガ時評やコラムなんかを依頼したい。
ケナしはしたけど、面白い。風呂敷の広げ方とか。
高校の新聞部にいた情報通の先輩にも似ている。


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