『小説の楽しみ』小島信夫著の続き。
「小説はいかに自由か」という話がいろいろと考えを押し広げてくれた。
作者は、ピーター“なにもない空間”ブルックを引き合いに、
芝居に比べて小説の自由性を考察している。
芝居は、台本があり、役者がいて、舞台装置、衣装、音楽、照明まで
お膳立てして観客に見せる。一方、小説は、読む人が勝手に脳内劇場を立ち上げ、
勝手にキャスティングして、テキストを勝手に解釈している。
いわゆるレディメイドの芝居が、なんでもある空間で、
お節介なほどまでの具象的な空間であるのに対して、
解釈を読み手に委ねる小説は、なんて自由な空間なんだ。
だとしたら、芝居がなにもない空間を取り戻すために反演劇が萌芽したわけだ。
言語、舞台から劇場までをどんどん省略、排除、解体していく。
作者は、ブルックの言を引用して、シェークスピアの芝居こそ、
「われわれが小説でやっているような」聖と俗などいろんなものを
併せ持ったなにもない空間だったと述べているように。
リアリティと演技についても同様なことがいえる。
よくいわれていることだが、舞台での演技は映像では違和感が生じる。
高感度なマイクがささやき声でも拾ってくれるから、
複式呼吸の発声法は、無用、ジャマとなる。
達者といわれる主役の演者より、なにもしない無名の脇役が気になる、魅了される。
そんな経験は、誰でもあるだろう。
じゃあなんなんだ。素というか、天然の魅力。
氏とか、育ちとか、見た目とか。あ、身体性か。
農民のような役者と役者のような農民。
さて、どっちが、リアリティを感じるのか。
ウケるとは、そのリアリティを感じ、共感してしまうことには異論はないが、
予想外のことやいい意味での裏切りなどだってウケるのは、なぜ。
なにもない空間ゆえに、豊穣な空間になる。
でも、そこには、想像力が必須なわけで。
熱くなったんで、今日はこのへんで。