風に吹かれて

廣松渉-近代の超克 (再発見日本の哲学)

廣松渉-近代の超克 (再発見日本の哲学)

向かい風、自転車に乗ったら、進まない、進まない。
思わぬ負荷がかかり、いいエクササイズ。
ただし、帰りは追い風で、あっという間に家に着く。
新年度の幕開け、ガソリン以外は値上げなんで、
近所のスーパーマーケットの「一の市」がやけに混んでいた。
米などを大量に買い込む。
小麦粉の価格が大幅アップ。貧乏人は米を喰え。


廣松渉―近代の超克』小林敏明著を読む。
そんなに厚くもないので、廣松哲学のエッセンスが掴める。
長い引用。

「ある仕事に従事すれば、一定の賃金が得られる。そしてそれを多く
行えば行うほど、より多くの賃金が得られる、と人は考えている。
−略−一人の人間が汗水たらして作った米を売って得た金額と、
別の人間がわずか数分の電話取引で得た株売買の利益との間に、
なぜあんなに理不尽なまでに極端な差が生ずるのかを考えてみればよい。
−略−価値の決定基準はむしろ、マルクスの言葉で言えば、
「総労働に対する生産者たちの社会的関係」にあるのだ。
ひとりの(ママ)人間の「労働」行為ではなくて、はじめから関係の網の目に
組み込まれた人間たちの「総労働」から逆規定的に個々の労働の「価値」が
決められてくるのである。マルクスはこういう事態を「取り違えQuidproquo」と呼んだが、
この「取り違え」のゆえに、あたかも「抽象的人間労働」が「凝結」するように
見えてくるのである。これがマルクスのいう「物神的性格」にほかならない」

廣松はこの「物象化」、「関係論的パースペクティブ」、
つまり労働者個人じゃなくって「社会的関係」に着目して独自の哲学を構築した。


廣松と西田幾多郎との意外な共通点の話も面白かった。
「近代の超克」といえば京都学派、結果的にはナショナリズム
大東亜共栄圏」、アジア侵略の温床となり、爾来、腫れ物的言葉なんだけど、
あえて晩年に廣松が提唱した狙いなどを知ることができる。
近代の超克とは、先進文明の規範である西欧を凌駕すること。
21世紀はアジアの時代といわれている。西欧の亜流ではなく。
どうもこの手の話題になると柄にもなくヤバイ方向に進んでしまう。


参照:近代知の超克を訴えた廣松構想のリアリティ 仲正昌樹


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