中心は偏在している

お中元をネットで送る。デパートやスーパーの特設中元コーナーのように
待つこともなく、イライラすることもなく、ラクチンゆえ。


チェーホフ浦雅春著の続き。

「1890年30歳のとき」サハリンへ行く。当時のサハリンは流刑地で、
そこで作風が変わるほどのカルチャーショックを受ける。

チェーホフはサハリンでモスクワ以外にもう一つの中心があることを
発見した。中心は一つではない。−略−「中心の喪失である」−略−
それは裏を返せば「中心の偏在」だ。−略−世界はたった一つの中心に
よって意味づけられるものではないのだ」

多元的価値観ってことになるかもしれないし、
昨今の小東京化する地方都市の在りようや
均一化してしまう(されてしまう)ことのつまらなさ、おそろしさだってある。
でも、その中にもそれぞれ中心はあるのだ。


あと、この一文が気になった。


「作家にとって必要なのは問題の正しい「提示」であって「解決」ではない。
これが世に言うチェーホフの「客観主義文学論」の核心である」

ここはもう少し反芻してみないと。

チェーホフのネタ帖」というものがあることを知る。
「自分が幽霊だと思って気が狂った人。夜更けになると歩きまわる」など、
かなりブラックなものがある。
ツービート時代のビートたけしのネタを彷彿とさせる。
これはぜひ読んでみたい。図書館にあるチェーホフ全集に
納められてあるだろうか。


ねじれた笑いで人間の厄介な本質を暴くには、
ネコのような覚めた眼が必要なのだろう。
ともかく文学や演劇で言葉や意味などを、解体してしまった行為や企ては、
古びることなく、現前している。


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