怪談前後

怪談前後―柳田民俗学と自然主義 (角川選書)

怪談前後―柳田民俗学と自然主義 (角川選書)

『怪談前後 柳田民俗学と自然主義大塚英志著 読書メモつーかエッセイ。


○『遠野物語』を通読した人は、どれくらいいるのだろう。
ぼくもたぶん、はじめのほうだけちょこちょこっと読んで
機会があれば、民話の里・遠野を訪ねてみたいと思っていた。
で、フリーになって間もない夏休みに花巻から遠野へ旅行した。
遠野は盆地で、訪ねた日もじりじりと暑かった。
駅前でミニサイズの観光バスに乗って
半日遠野の名所めぐりに出かけた。


○そのとき、運転手兼ツァーガイドが、『遠野物語』を紹介したが、
柳田國男よりもご当地に伝わる民話を語った佐々木喜善にスポットを
当てていたのは、仕方ないだろう。
民話村へ連れて行かれ、語り部の老婆から「おしらさま」の噺を聞いた。


○この本を読むと、佐々木が遠野の昔噺と「ドイツの片田舎や南洋民族中の伝話に
甚だ類似せる物多い」と。作者はそれを「ハイカラ」と表現し、
その『遠野物語』にある「西欧的オーラ」を柳田が隠蔽してきたという
横山茂雄らの説を取り上げている。


○ハイカラ、西洋というフィルターを一枚通して日本文化の素晴らしさを捉える。
それは『怪談』をものした、ラフカディオ・ハーンも同一手法であり、
フィールドワークで熱帯のあでやかな蝶を集めるように民話を採取、再話、加工した。


柳田國男田山花袋がくっついては離れ、またくっつくというつきあいは、
柳田がいわゆるネタを提供して、田山がそれを小説にしたり、
また田山は柳田をモデルにしていたそうだ。
スタートは同じ自然主義でも、かたや民俗学へ、かたや私小説へと分岐していく
経緯は、かなり学術的というよりもどろどろした感情的なものをイメージしてしまう。


○やがて佐々木は「大正に入ると神がかった言動をとり始める。他方、喜善と柳田の
仲介者であり、もう一つの『遠野物語』の作者でもあった水野葉舟は心霊研究に
のめり込み、ついには日本心霊現象研究会を立ち上げるに至る」


○この本によると、佐々木は当時流行っていた大本に入信したそうだ。やがて、脱会。
生家が小金持ちで、所帯を持ちながらものんしゃらんな高等遊民をしていたそうな。
当初の目的である小説で身を立てたいと柳田に何度かツテやコネを懇願する。
田舎のモダン“ニート”ボーイっぽくて、
こういう人種はつい最近まで生存していたのだが。いまは何処へ。


○「「怪談の時代」は日露戦争から靖国神社の成立に至る幽霊の国家管理時代の
であったことを忘れるべきではない。死傷者15万人、出征した歩兵の10人に1人が
戦死した日露戦争はそれ故に「死者」を否応なく大衆たちが意識せざるを得ない
事態を生んだ。戦死者を靖国神社に祀ることで「幽霊」を国家管理していく思考が
制度化される一方で、陰膳を始めとする戦争をめぐるフォークロアが成立する」


○大正生命主義やその時代のオカルト、スピリチュアリズムに興味を持たれた人は、
『大正生命主義と現代 』 鈴木貞美河出書房新社 の一読をおすすめする。


付:略年表


1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)―日露戦争勃発、終結
1904年(明治37年)―小泉八雲が著した怪奇文学作品集「怪談」を出版。
1907年(明治40年)―田山花袋、中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた「蒲団」を発表。
1912年(明治45年)―佐々木喜善によって語られた地元の民話を、柳田が編纂した「遠野物語」を発表。
1923年(大正12年)―関東大震災
1924年(大正13年)―4月、宮沢賢治、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。
          12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


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