青い鳥、逃げた

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代

バブル文化論―“ポスト戦後”としての一九八〇年代

資料読み込みいの、書き物しいの、合間に『バブル文化論』原宏之著を読む。
東京大学「80年代地下文化論」講義』宮沢章夫著は、バブル文化体験者としての個人的な体験の総括だが、
この本は、クロニクル的というのか、80年代をまるごと、追体験で咀嚼しようとしている。
原体験ではないので、対象を突き放してプレパラートにのっけて顕微鏡で眺められるのだろう。

80年代は学術的(?)にも、オタクは浮上していなかったそうだ。オタク前期、地下潜伏期か。

こっちの方が、客観的で、80年代を知りたい人、知らない人にはおすすめしたい。
かなり丁寧に解釈及び注釈がしてある。
特にTVドラマやお笑いに興味のある人には、参考書としていいと思う。

一時期、フジテレビっ子だったとんねるずとフジテレビの躍進について言及しているが、
日テレの「お笑いスター誕生」に出ていたアマチュア時代のとんねるずの木梨君はかわいいキャラで
会場にいる若い女性から歓声があがっていたことをつい昨日のように思い出す。

この本では、80年代トレンディドラマの代表として「男女七人夏物語」や「金曜日の妻たちへ」を挙げ、
アンチ・トレンディドラマの代表として「金八先生」や「ふぞろいの林檎たち」を挙げている。
しかし、アンチ・トレンディドラマがトレンドになれば、トレンディドラマになってしまい、
作家・企画者の意図など一切構わず、たちまち消費され尽くしてしまう。

バブルの恩恵を蒙った団塊世代・ポスト団塊世代とバブルとは無縁の団塊ジュニア世代。

バブル現象とは、おそらくこういうことなのだ。新しいモノが目の前に豊富に広がるなかで、
あの車やあのドレス、あの高級マンションへと食指が向う。だがモノの所有を突き抜けた
向こう側に、何かしら精神的なホンモノの「幸福」があると信じなければ、
空の豪華マンションや押入にしまったきりのドレスも虚しいだけである。
スラヴォイ・ジジェクのいう「消える媒介者」(『信じるということ』)としての
モノたちに信頼が換喩的転移をすることはない

「ホンモノの「幸福」」をバブルが弾けて以降、ずっとみんなが探している。
失われた10年とかいう喪失感なんだけど、実際のとこはどうなんだ。

余談になるが、クロマグロの割当量が減って、すわ日本人の大好きなマグロが食えなくなるかのような
バカ騒ぎをしていたけど、こちとらクロマグロなんて縁がないんで、
マグロだったらうまきゃ何でもいい。養殖だってかまいやしない。

参考までに、以前に、ぼくのグダグダ書いたメモを。

『東京大学「80年代地下文化論」講義』宮沢章夫著の読書メモ兼インスパイアされた事柄 その1

『東京大学「80年代地下文化論」講義』宮沢章夫著の読書メモ兼インスパイアされた事柄 その2

これで80年代論は打ち止め、たぶん。