- 作者: ジャン=リュック・ナンシー,西山達也,大道寺玲央
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2006/04/07
- メディア: 単行本
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朝、『めざましテレビ』をかけっぱなしにしていたら、船橋市の傾聴ボランティアを紹介していた。
要するに独居老人や施設に独りでいて、話すことが少なくなった人に対して
同世代のボランティアが話を聴きにくるというもの。
対話ではない。あくまでも聞き役。
話を聴いてもらえることで、随分と気持ちは変わる。
『読書する女』という映画の題名をパクれば『話を聴くひと』。
何も高齢者ばかりじゃない。各世代に何かこういうことが、
これからもっと望まれるのではないかと、平凡な感想。
ここしばらく、子どもがピアノ教室でモーツァルトのピアノ・ソナタに挑んでいる。
挑んでいる割りには練習はさっぱりだが。
で、モーツァルトのピアノ曲ならやっぱり内田光子なんで、
ゲットした彼女のモーツァルトのピアノ・ソナタのCDを聴きながら、
仕事したり、レビューを送ったり。
『イメージの奥底で』ジャン・リュック・ナンシー著から、ちょっとだけ抜き書き。
○「そもそもイメージとは物質的(マテリエル)なものである」
○「物質とは、まずもって母である(質料(マテリエス)という語は、母(マーテル)に由来し、これは木の芯の部分、
硬い木材である)。そして母とは、そこからの、また同時にそこにおいて、区別があるところのものである」
ハイデガーのイメージの喩えであるデスマスクに対する言及
○「デスマスクの写真は、この最初の怪物的な示しを呈示し、示しているという点においてイメージなのである。」
○「すなわちそれは、もはや見ることのない者の眼差しを欠いた顔が、みずからを見てとらせる眺め(ビュ)である。
それは視(ジヒト)を欠いたものの顔貌(ゲジヒト)であり、これこそが範例的なイメージなのである」
異郷化をともなう風景
○「風景はいかなる現前を含んでいるものでもない。風景それ自体が、現前の全体なのである」
○「風景はつねにある移行の宙吊りであり、情景あるいは存在の、距てと空虚化としてのこの移行そのものである」
難解だけど、言葉の端々に感じるものがある。
ジャン・リュック・ナンシーは心臓移植体験者で、
その事実をからめて上記の引用を再度味わうと、違ったイメージになる。
彼の論考とボリス・ヴィアンの小説『心臓抜き』を誰かトランスクリティークしてくれないかな。
異郷化、異身体化とか異化でもいいし。それこそ義体でも。